デジカフェはJavaScriptを使用しています。

JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。

第17章:日常の温度

2026年03月06日 02:11

第17章:日常の温度

秋田の実家で一週間を過ごし、気持ちを切り替えたつもりで東京マンションに戻った。だが、開いたノートパソコンの画面は驚くほど無機質だった。
リモート会議で飛び交う同僚たちの声が、遠い世界の出来事のように鼓膜を滑り落ちていく。みおは、キーボードを叩く自分の指先をふと見つめた。あの黒い湯面で、ゆうの体温を吸い取った指先だ。

「みお、コーヒー淹れたよ。少し休んだら?」

直樹の何気ない優しさが、今の彼女には刃のように痛い。マグカップを受け取る際、夫の指先がわずかに触れた。

(あ……)

その瞬間、全身を走ったのは安らぎではなく、激しい“違和感”だった。ゆうの震えとは違う、乾いた、あまりに平穏すぎる温度。みおは反射的に手を引きそうになるのを、懸命に堪えた。
夜、一人で入る風呂。ただの沸かし湯は透明で、あの銀山の重い黒さはない。けれど目を閉じれば、湯の揺れが背中を包む感触が、暗闇の中から鮮明に蘇る。

一方、ゆうは三年前まで通い慣れたベルリンの本社ビルにいた。一ヶ月の長期出張。かつての同期たちに囲まれ、パブの喧騒の中でジョッキを傾ける。

「ゆう、お前、東京では仕事がきついのか? 少し顔つきが変わったな」

笑い声と、重厚なビールの味。仕事の充実感。かつての自分が愛していたはずの「正解」の日常がそこにはあった。

だが、会話が途切れたふとした瞬間の空白に、彼は引きずり込まれる。賑やかな店の天井が、あの古い浴室の裸電球に重なる。隣に誰もいないはずの空間に、確かに誰かの吐息を感じて、彼は無意識左手を強く握りしめた。

物理的な距離を置き、何事もなかったかのように「元の場所」で生きている二人。

それでも、日常の温度に触れるたび、あの夜の熱だけが、わずかに輪郭を増していく。
心臓の奥底で、決して溶けることのない澱(おり)のように。

このウラログへのコメント

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントを書く

同じ趣味の友達を探そう♪

  • 新規会員登録(無料)

プロフィール

マーク

  • メールを送信する
<2026年03月>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31