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最終章:還る場所

2026年03月11日 00:22

最終章:還る場所

直樹の一周忌を終え、納骨を済ませた。
墓石の下に収まっていく骨を、みおは静かに見つめていた。
自宅に戻り、しんと静まり返ったリビングで一人、深い息をつく。
家族としての責任、妻としての役割。
そのすべてを全うした安堵のあとに、心には透明な空白が残っていた。
その静寂の中で、みおはふっと、福島のあの「黒い熱」を思い出した。

再会を期待したわけではない。ただ、人生の大きな区切りを終えた今、魂の底に残っているあのかすかな震えを、確かめに行きたかった。

一方、ベルリンでの重責を退いたゆうもまた、日本へ帰国していた。一ヶ月の滞在先に彼が選んだのも、あの宿だった。

その夕暮れ、廊下の角で二人は出会った
湯から上がり部屋へ戻るゆう。湯へ向かうみお。
三十年の歳月は二人の容貌を変えていた。
交差する視線の奥にある「波長」が、一瞬で互いを識別した。

「……少し、歩かないか」

みおは頷いた。
三十年前、途切れた言葉の続きを聞いた気がした。

温泉街紅葉は燃えるように赤く、夕闇に溶け込んでいる。
二人は多くを語らず、ただ肩を並べて小道を歩いた。
足音だけが、静かな夕暮れに重なっていった。
​宿に戻り、二人は共に湯に浸かった。
黒い湯面の下で、どちらからともなく手が触れ合う。
相手の吐息を感じ、安らぎが全身に染み渡っていく。かつての飢えるような渇望ではなく、それは深い、深い受容だった。

夕食も、共に取った。
三十年前、味がしなかったあの「無味の食膳」とは対照的に、今の二人は、一品一品の美味しさを慈しむように味わっていた。
会話はほとんどない。けれど、沈黙が少しも怖くない。
そこには、長い旅を終えてようやく辿り着いた、確かな安心感が膨らんでいた。

夜、宿が静まり返った刻。

並んだ布団の中で、みおはふっと隣のゆうの布団の中へ手を忍び込ませた。
ゆうの大きな手が、優しくみおの手を包み込み、そのまま静かに彼女を自分の元へと誘った。
​
重なる唇。長い、長いキス

肌が触れ合うたび、凍結していた三十年間の時間が、ゆうの体温で溶かされていく。
ゆうはみおを後ろから包み込むように抱き寄せた。
互いの気持ちは静かに高揚しながらも、激しく動くことはない。

相手の息に合わせながら、みおはゆうを受け入れ、二人はついに、一つになった。
三十年前、届かなかった「一ミリ」。
その距離は、もうどこにも残っていなかった。
二人は深い、心地よい眠りについた。

朝。

カーテンの隙間から差し込むわずかな光が、
部屋の輪郭をゆっくり浮かび上がらせていた。
三十年前の朝と、同じ光だった。
みおは、ゆうの胸に顔を寄せた。

言葉はない。

けれど二人のあいだには、もう埋めるべき距離は残っていなかった。
シーツの隙間から漂うのは、懐かしいカサブランカの残り香と、長い歳月を生き抜いた者だけが分かち合える、穏やかな安らぎの匂い。

夜明けの静けさの中で、二人の波長は透明に重なり合っていた。

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