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第21章:届かない一ミリ

2026年03月10日 01:52

第21章:届かない一ミリ

ゆうは、すでに転勤の準備をすべて終えていた。
一週間前からホテル住まいとなり、マンションは引き払った。
残されたのは、ベルリンへ向かう数個のスーツケースだけだった。
彼にとっての日本は、いまやこのホテルの客室という、仮初めの箱の中にしか残っていなかった。
「出国前日の二十時。私のホテルで」
ゆうからの短いメッセージに、みおはそれだけを了承した。

当日。
東京は冷たい雨だった。
みおは、誰にも見せたことのない高揚と、すべてを捨てる覚悟を胸に、ホテルへ急いでいた。
フロントを抜け、エレベーターに乗れば、そこにはゆうがいる。
日常のすべてを脱ぎ捨てた場所で。

(あと、少しで……)

そのとき、バッグの中でスマホが鳴った。
画面には、知らない番号。

「……はい」

受話器の向こうの声は、落ち着いていた。
直樹が事故に遭い、病院へ搬送されたという。
みおは、しばらく何も言えなかった。
エレベーターの鏡に、着飾った自分の姿が映っている。

まるで、別人のようだった。

指先が震え、スマホが急に耐えがたい重いものに変わっていく。

(……いまだけは)

そんな思いが、胸の奥で一瞬だけ浮かび、すぐに沈んだ。

「……奥様、聞こえていますか?」

病院のスタッフの、落ち着きすぎた声。その冷徹なまでの冷静さが、みおを無理やり現実に引き戻した。

「……すぐ、向かいます」

電話を切ったあと、みおはスマホを握ったまま立ち尽くした。

そして、ゆうに一行だけ送った。
『ごめんなさい。行けなくなりました』
少しして、既読が灯った。
それ以上の言葉は、なかった。

外に出ると、雨はまだ降っていた。
みおはタクシーを拾い、病院へ向かった。
ホテルの上層階には、まだ灯りが残っていた。
その距離は、ほんの数十メートルだった。

けれどその夜、
二人のあいだの「一ミリ」は、最後まで埋まらなかった。

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