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第19章:スクリーンの体温

2026年03月08日 01:58

第19章:スクリーンの体温

ベルリンの午後。ゆうは、みおから届いた「確認事項」のリストを前に、完璧な論理を組み立てていた。
言葉の定義、ニュアンスの微差、そして東京側との認識の共有。これらをメールの往復で済ませるのは時間がかかりすぎる。

ビデオ会議で一気に詰めるのが、最も効率的だ)

彼は自分自身にそう説明した。別の動機については、考えないことにした。
事務的なメールの末尾に、淀みのない一文を付け加える。

『追記:第3章および第5章については、文字だけでは認識の齟齬が生じるリスクがあります。確認の効率化のため、本日20時(日本時間)から15分ほど、ビデオ会議にて直接すり合わせをさせてください』

「効率化」という、反論を許さない正論の響き。送信ボタンを押した直後、ゆうはネクタイをわずかに緩めた。合理的な判断を下したはずなのに、肺の奥がひどく熱かった。

一方、東京
夕闇が迫る自室で、みおはその一文をじっと見つめていた。「効率化」。「効率化」という文字が、なぜか滲んで見えた。けれど同時にそれは、自分を騙して、彼に会うための免罪符でもあった。

「……承知いたしました」

日本時間、20時。
約束の数分前、みおはデスクでヘッドフォンを装着した。外界の音を遮断し、耳元に広がる静寂が、これから始まる時間の秘匿性を高めていく。
​その時、背後のドアが静かに開いた。

「みお、コーヒー淹れたよ。根詰めてるみたいだから」

直樹だった。彼は微笑みを浮かべ、湯気の立つマグカップをデスクに置いた。
「……ありがとう」
ヘッドフォンをずらし、無理に作った笑顔で応える。
夫が部屋を出てドアが閉まった瞬間、みおの心に鋭い痛みが走った。
直樹が注いでくれた愛情の象徴であるはずのコーヒーが、今の彼女には、自分の不実を告発するよう湯気はすぐに消え、ただ黒い液体だけが残った。

(私は、何をしているんだろう……)

激しい罪悪感に襲われながらも、刻一刻と迫る20時の数字が、抗いがたい期待で彼女を支配していく。震える手でヘッドフォンを正し、画面の「接続」をクリックした。

画面が切り替わった瞬間、ベルリンの昼の光を背負った、ゆうの姿が現れた。

「お疲れ様です、みおさん。……効率を考えて、この形にさせてもらいました」

ヘッドフォンを通じて届く、ゆうの声。スピーカー越しとは違う、吐息の混じったようなその低音は、あの福島の夜、耳元で響いた温度をそのまま連れてきた。
ゆうはすぐに画面共有を開始し、資料を映し出す。

「第3章のこの部分ですが……」

彼は淡々と、理路整然と説明を続ける。完璧ビジネスマンの表情。
けれど、カメラを避けて資料を見つめる彼の瞳が、時折わずかに揺れるのをみおは見逃さなかった。
「効率」という盾の裏で、彼の視線は、終始、資料から外れなかった。

デスクの上のコーヒーの香りが、隣の部屋にある「日常」を突きつける。
一方で、耳元で囁かれるゆうの声が、彼女をあの夜の「非日常」へと引き戻す。
二人は仕事という台本を読み上げながら、ヘッドフォン密室の中で、

「では、本日は以上で」

通話が切れる。
画面に映る自分の顔だけが残った。
ベルリンの光は消え、東京の夜が戻る。
ヘッドフォンを外した瞬間、部屋の静寂が、やけに重かった。
デスクの上のコーヒーは、すっかり冷めていた。

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