デジカフェはJavaScriptを使用しています。

JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。

境界の温度(後編)

2026年03月22日 02:16

境界の温度(後編)

放課後廊下は、まだ人の気配だけが、置き去りにされていた。
窓の外には、あの日とよく似た、乾いた光が差し込んでいる。

角を曲がった瞬間、足が止まった。

視界の先に、彼女がいた。

志乃もまた、同じように立ち止まっていた。

ほんの数メートルの距離。
それだけなのに、あの日よりも近かった。

「……先生」

先に声を出したのは、どちらだったのか分からない。

その一言だけで、触れていないはずのものが、確かに、消えてはいなかった。

あれから数週間。
私たちは「正しい教師」と「正しい保護者」を演じていた。
教壇から見る彼女息子、巴くんの背中は、楔のようにそこにあった。

けれど、校門ですれ違う一瞬、あるいは書類を受け渡す刹那
視線が絡むたびに、あの相談室でついた「火傷」が、皮膚の下で疼き出す。

触れていないのに、触れた記憶がある。

一度も重ねていないはずの指先の熱が、幻影のように実体を持って、内側に残り続けていた。

「これ、巴から預かってきました。……出し忘れていたみたいで」

志乃が差し出した一通の封筒。

受け取ろうとした瀬戸の指先が、彼女の掌を、逃げ場のない速度で掠めた。

あの日、止まったはずの何かが、動いた。

瀬戸は封筒を掴んだまま、彼女の手首を、逃がさないように掴んでいた。

抗うはずの志乃は、ただ静かに、射抜かれたような瞳で瀬戸を見つめ返している。

拒絶も、驚きもなかった。

ただ、同じものを知っている目だった。

放課後の、誰もいない準備室。
ドアが閉まる音さえ、吸い込まれていった。

言葉はいらなかった。

瀬戸の手が彼女の頬に触れた瞬間、志乃はそのまま、力を抜いた。

石鹸の香りを、狂おしいほど濃密な「花の蜜」の香水が塗り潰していく。

重なり合う呼吸。
衣服が擦れる微かな音。

それ以外の音が消えていた。

どちらが先に求めたのか。
どちらが先に壊したのか。

その境界さえ、混じり合う熱の中で曖昧に溶けていく。

瀬戸の指先が、彼女指輪を確かめていくたび、志乃の吐息を彼の肩に埋めた。

それは、安堵に似た、静かな絶望だった。

窓の外、夕闇がすべてを等しく塗り潰していく。

一度だけ。

肌を重ねるたび、巴くんの笑顔が、社会的な地位が、積み上げてきたすべてが、遠くで消えていった。

満たされているのに、救われない。

触れてしまったことで、この渇望には終わりがないのだという感覚だけが、静かに残った。

「……先生」

志乃が、乱れた服を整えながら、背中を向けたまま呟いた。

その声は、もう震えていなかった。

朝が来れば、また日常が始まる。

瀬戸は教壇に立ち、志乃は食卓を整える。

“正しい他人”として。

それでも、「一度だけ」は終わりを意味しなかった。

触れてしまった指先は、もう元には戻らない。

越えたのに、救われない。

その凄惨なまでの美しさを抱えたまま、二人は別々の方向へ歩き出した。

放課後の準備室。
重い扉が閉まった瞬間、音が途切れた。

残されたのは、重なり合う浅い呼吸だけだった。

どちらが先に手を伸ばしたのか、もう分からない。

瀬戸の指先が、志乃の頬に触れた。

あの日、止まったはずの距離が、そのまま埋まる。

「……あ」

志乃の喉から、微かな吐息がこぼれた。

彼女は拒まず、ただ見つめ返している。

そこに、言葉はいらなかった。

重なり合う体温。
衣擦れの、かすかな音。

それ以外の音が、消えていた。

瀬戸の指先が、彼女の輪郭を確かめていく。

志乃は、吐息を彼の肩に埋めたまま、ただ身を委ねていた。

激しさはどこにもない。

それは、積もりすぎた雪が、音もなく崩れるような静かな決壊だった。

満たされているのに、救われない。

触れてしまったという事実だけが、静かに残った。

​⑥ 結末(一度きりの永遠
窓の外、夕闇がすべてを等しく塗り潰していく。

一度だけ。

肌を重ねるたび、巴くんの笑顔が、社会的な地位が、積み上げてきたすべてが、遠くで消えていった。

「……先生」

志乃が、乱れた服を整えながら、背中を向けたまま呟いた。

その声は、もう震えていなかった。

「はい。……相原さん」

瀬戸の声もまた、どこか遠くから響いているようだった。

朝が来れば、また日常が始まる。

瀬戸は教壇に立ち、志乃は食卓を整える。

“正しい他人”として。

それでも、「一度だけ」は終わりを意味しなかった。

触れてしまった掌は、もう元には戻らない。

越えたのに、救われない。

二人は静かに足を出し、別々の方向へ歩き出した。

その背中に、冬の冷たい月光だけが、等しく降り注いでいた。

このウラログへのコメント

コメントを書く

同じ趣味の友達を探そう♪

  • 新規会員登録(無料)

プロフィール

マーク

  • メールを送信する
<2026年03月>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31