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守るための一度

2026年03月23日 03:04

守るための一度

送別会二次会は、いつものように騒がしく終わった。

けれど店を出たあと、帰りの方向が同じだという理由だけで、私たちは並んで歩いていた。
隣を歩く真美の肩が、歩調に合わせてわずかに揺れる。

仕事の話をしているはずなのに、言葉の端がどこか不自然に滑る

「……このまま、帰りますか」

真美のその一言が、妙に重かった。

明日には、私、一樹はこの街を去る。

数年間、私たちは“何も起こさないこと”を前提に、完璧に仕事をしてきた。

プレゼンの最中、私が次に欲する資料は、言葉にする前に差し出される。

深夜のオフィスで、缶コーヒーの熱だけを分け合う。

それ以上は、どこにも踏み込まない。
ふとした拍子に手が触れそうになるたび、
どちらからともなく、その距離を正してきた。

触れたい、と願うことさえ不潔に思えるほど、私たちの関係は「正しく」保たれていた。
その「正しさ」が、今、最後の一夜という崖っぷちで、わずかに軋んでいる。

立ち止まった真美の瞳には、
仕事のトラブルを鮮やかに捌く時と同じ、
冷徹なまでの正確さと、
それを上回る深い諦念が宿っていた。

「……このまま綺麗な思い出にするには、私たちは少し、時間を共有しすぎました」

真美の声は、夜の空気に溶けるほど静かだった。

わずかな沈黙のあと、彼女は言葉を継ぐ。

「……ここで、終わらせましょう」

その言葉は、区切るためのはずだった。

けれど、それが終わりではないことを、どちらも理解していた。

明日からの日常を守るために、今この瞬間の「正しさ」を棄てる。

その逆説に、私は抗う術を持たなかった。

触れたいという渇望を、「終わらせるための儀式」
という名目で覆い隠し、私は彼女の細い肩に、
初めてその手を伸ばした。

ホテルの部屋の沈黙は、深海の底のように重く、静かだった。

私たちは、まるで明日の重要なプロジェクトの最終確認でもするかのような、迷いのない、けれどひどく慎重な手つきで互いに触れた。

そこには、若者のような荒々しい情熱はどこにもない。

ただ、今まで一線を越えないために記憶してきた互いの癖を、一箇所ずつ確かめていくような、静かな執着だけがあった。

指先が真美の首筋に触れる。
石鹸の匂いの奥に、微かに残る香り。

整えられていた髪が、私の指の間でさらりとほどけた。

「……一樹さん」

真美の吐息が、距離を測っていた理性を、静かに崩していく。

言葉は、もう必要なかった。
肌の質感と、重なり合う呼吸だけが、部屋の中に残る。

私の動きに合わせて、真美がわずかに身体を預けてくる。

その呼吸は、これまでと同じように正確で、けれど、どこか違っていた。

触れるたびに、指先が彼女の輪郭を覚えていく。

一度も声を上げなかった。

ただ、暗闇の中で、互いの存在を、その欠片さえも逃さないように、静かに確かめ合っていた。

カーテンの隙間から、容赦のない灰色の光が差し込み始めた。
シーツの海の中で、私たちはただ横たわっていた。

互いの輪郭を確かめ、記憶の箱に封じ込めた。

……そのはずだった。

けれど、指先を離した瞬間、身体の芯を襲ったのは、経験したことのないほど激しい欠落感だった。

「……終わら、なかったですね」

真美の掠れた声が、冷ややかな朝の空気に溶ける。

知らなければ、耐えられた。
彼女の肌の温度も、
呼吸のわずかな揺れも、
触れたときにだけ見せる、あの沈黙も。

それらすべてが、静かに残っている。

かつては「理想的距離感」を保っていたはずの理性が、
今はただの抜け殻のように頼りない。

一度きりで終わるはずだったものが、どこにも終わっていない。

「一樹さん……私、もう昨日までのようには、あなたのスケジュールを管理できません」

朝の光の中で、真美はまっすぐにこちらを見ていた。

その目は、何かが終わったことではなく、
戻れないことだけを知っていた。

駅のホームには、冷たい風が吹き抜けていた。

昨夜の熱など嘘だったかのように、私たちは再び、整えられた「同僚」の顔で向かい合っている。

私の荷物はすでに積み込まれ、発車のベルが、無情なカウントダウンを告げていた。

「お元気で。……一樹さん」

真美が差し出した手は、いつものように迷いがなく、凛としていた。

見慣れていたはずのその手に触れた瞬間、
昨夜の記憶が、静かに蘇る。

触れてしまった指先は、もう距離を思い出せない。

「……真美さんも」

短い言葉を交わし、私は列車に乗り込む。

動き出した車窓の向こうで、真美の姿が小さくなっていく。
彼女は最後まで、完璧な一礼で見送っていた。

列車が加速し、彼女の姿が視界から消えても、
掌に残った熱だけが、消えなかった。

私たちは別れた。

それでも、何かは、終わっていなかった。

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