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書籍:高杉晋作 吉田松陰の志を継いだ稀代の風雲児
2015年01月25日 23:20
今日のご紹介は、童門冬二氏の著書
■高杉晋作吉田松陰の志を継いだ稀代の風雲児
■童門冬二(著)
吉田松陰の弟子であり、奇兵隊を作り上げた高杉晋作氏ですが、「面白くない世を面白く生きつづけた男」とも言われています。
特に高杉晋作には、決まりきったルートで教育をさせようという親の縛りもあった。
そのようななかでも、色々なことを成し遂げた。
失敗もたくさんあったけど、必ず未来への糧にしてきた。
29年という短い生涯でしたが、松陰や他の長州の志士同様、残したものが非常に多い。
そのような個性ある晋作の、考え方、影響を受けたマネジメント術は、現代でも不変です。
ビジネスマンの方にも非常に参考になる一冊だと思います。
それでは特に参考になったエッセンスをご紹介していきます。
●高杉晋作の師である吉田松陰は、「可能か不可能かは、やってみなければわからない。崖の高さを測らずにすぐ跳べ」と求めつづけた。
(P41 引用)
これは松陰が安政の大獄により処刑される寸前の言葉であるが、この言葉は解釈次第ではとてもいい言葉である。
人は高い目標を設定しようとしながら、私には無理だろうと怖気づいてしまうところがある。
しかし、考えてみれば、誰しも最終目標は高いものになってしまう。
何より高い目標でないとやる気にならない。
その半面、自分には不可能だとあきらめてしまったり、なかなか始めてみる決断がつかなかったりする。
この場合、まずは小さな1歩からやってみる。
そのためには崖の高さを測らずに(考えずに)、まずは小さくやってみるといいでしょう。
一方で、危険なのは崖の高さを測らないのではなく、知っていながら無視するやり方だ。
このやり方をやってしまうと、崖にまっしぐらである。
いきなり高い目標だけを見たり、高いところへ大きい角度を持ってトライするやり方だ。
角度が大きすぎるとバランスを崩してしまい、崖へそのまま行ってしまう。
吉田松陰のこの言葉は、とりあえず小さなことからはじめてみようと、まず最初の1歩を踏み出す勇気を与える言葉なのではないかと私は解釈しています。
●高杉晋作の父小忠太は、実直な真面目役人であり、「定められた枠の中で忠を尽くして行く」というタイプの武士である。
先例や掟をきちんと守ることが、すなわち忠なのだという考えを持っていた。
だから、晋作に「松下村塾へかような」としばしば禁足命令を出していた。
しかし、晋作はそれを破って村塾へ通った。
これは、藩校の明倫館が、父のような人物を養成する、「先例や掟で雁字搦めに(がんじがらめに)固められた学校」だったからだ。
もう1つ理由がある。
「水は方円の器に従う」という言葉がある。
水自体に形はない。
だから、水は入れられた容器に合わせて自分の姿を変える。
方すなわち四角い入れ物に入れられれば四角くなり、円すなわち丸い入れ物に入れられれば丸くなる。
水自体は抵抗しない。
そうなると、「人間の意識もある程度生活環境によって決まる」といえる。
高杉家は、萩城の堀之内に近い菊屋横丁という地域にあった。
毛利家における大身あるいは中クラスの武士の家が密集していた。
高杉家もその中にあった。
「水は方円の器に従う」という言葉を当てはめれば、これが晋作の生家を囲む方円の器だったわけである。
つまり、晋作という一滴の水は、「毛利家の高級クラスないしは中級クラスの武士群」の真中にあったといっていい。
小忠太は、周りの家々の武士たちをそのまま自分の基準にしていた。
つまり、小忠太は、「周りの方々に合わせて生きるのが、毛利家への忠なのだ」と思っていたのである。
という意味では、方円の器に支配される水には自分なりの意思というものがない。
ところが晋作は違った。
「自分の意思を持つ一滴の水」である。
晋作の考えは「水が円の器を隋わせる」というものです。
つまり、「個人の意思が、住む環境を変えていく」と考えたのです。
●晋作は、一か所の土地にしがみつくこだわりの精神である一所懸命の思想から、自分を解放していた。
もっと伸び伸びと、「だれかさんのため・地域のため・そして国のため」に生きようとした。
だから、藩の軍艦教授所入りを希望した。
入所して1か月後、藩命によって、藩の軍艦丙辰丸に乗艦を命ぜられた。
しかし乗ってみると、天候が悪くなかなか出港できなかった。
「船というのは、意外に不自由なものだ。自然の力には勝てないのだ。一たび風が吹き、荒い波が立ち上がれば、船など脆くもひっくり返ってしまう」ということを痛感した。
晋作はまだ若いから飽きっぽい。
自分の思うとおりにならないとすぐ嫌になる。
しかしかれは普通の人間ではなく、すぐれた面があった。
それは船の能力の限界を知ったからといって、「もはや海軍は必要ない」と思わなかったことである。
逆に、だからこそ海軍が必要なのだ。軍艦の能力をもっと高めるような工夫が必要だ」と考えた。
しかし、考えたのはそこまでで、「おれの力によって、長州藩の海軍を興隆してやろう」とは思わなかったことである。
むしろ、この航海で、「おれは海に向かない」と悟ったのである。
これは軍艦に乗って、船の能力の限界を知ると同時に、「自分の限界」も知ったということです。
もっといえば、「あれもこれもと、いろいろなことをやろうと思っても、結局は自分には何が向いているかを知らなければダメなのだ」ということを知ったことである。
これは現代にも通ずる。
人は苦手を克服しようと一生懸命になる。
確かに1を2にすることで、人に迷惑をかけないということはある。
でもそれを4や5にする必要はない。
するのに時間がかかるし、そのことに時間をかけすぎると、むしろ本来5だったものの力が落ちてしまうということになりかねない。
自分には向かないとおもったらやめる。
この清さがあえて成功への道なのかもしれない。
●時の藩主である毛利隆親は、「そうせい候」と呼ばれていた。
このあだ名の由来は、家臣がどんなお伺いを立てても、敬親は必ず「そうせい(そうしろ)」と頷くからである。
早くいえば、家臣の案はすべて丸呑みにする。
善悪の判断はしない。
だから、「そんなことはやめろ」とは絶対に言わなかった。
そのため家臣たちは、敬親に対し、「そうせい候」というあだ名をつけた。
しかし、敬親が常にそういう態度をとるので、家臣の方も考えはじめる。
それは、「変な案を立てて、殿のお許しを得たのでは、殿に責任が生ずる場合がある」という自覚である。
家臣が敬親に対して忠誠心をもつようになったのである。
現代のマネジメントでも通ずる部分がありますね。
部下が意見を持ってくるのはいいが、考えが足りないと嘆く管理職の方も少なくないであろう。
「考えてもってこい」と言う。
しかし、そう言うことで、部下はもっと考えなくなってしまう。
また、怒られるのが嫌だから何の意見も出さなくなってしまう。
そうではなくて、何でも自由にやらせてみる。
そうすることで、部下も考えるようになるのだ。
承認すれば、部下はこの上司のために頑張ろうと思うようになるのです。
このように考えを転換してみるといいでしょう。
このデジログへのコメント
高杉は高山寺決起とか
よっ!誠意大将軍!(後の創作らしいけど)
とか時代を読んだ破天荒さが人気ですね
SYUZO-さん:ですね♪やっぱり私より詳しそうですね(*^^*)
この時代の人は何かを成す為には命をかける事が出来たから凄いのでしょうね♪
今の時代ではねぇ?
人の考え方は体験(方円)によって形成されます。晋作の考え方もの体験によって形成されたと思いますよ。
宵さん:今はそこまでするひとは…まれかもしれませんね
koujiさん:そうですね。色んな人に出会って色んな経験をしたんだと私も思います
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