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散髪屋のエリック

2007年03月14日 13:14

散髪屋のエリック

息子が、パパエリック新聞に出てるよ、と色刷りの写真を私の目の前に突きつけた。

ああ、先週の金曜日4時前にエリックの店に頭を刈ってもらうのに滑り込んだらすでに3人の男共が雑誌や新聞に目を通しており、それじゃ一人20分として閉店5時半ならセーフだな、と言えば、大丈夫とのこと、去年いつだったか滑り込みでもアウトだったときがあったから、今日の幸運の一つとしようか。それで、長く見なかったなあ、この前は12月の初めで水泳用の丸刈りだっからなあ、それを家人に伸ばしたほうが何とかなるのじゃないのと言われたからと言えばエリックは怒って電話貸しな、商売の邪魔になるようなことは言うなって言ってやると笑う。 そうだろうな、ま、アンティークな店は散髪道具の骨董で包まれもうじき骨董になろうかという連中が寄ってくる。

うちの家族の頭は私を除いてみな、息子幼稚園から小学校のときによく遊びに来ていた友達の親のところに行く。 そこは旦那が男の髪を、かみさんが女のをということで夫婦で見習いを何人か置いて手広く理容店をやっており、それも開店以来だからからもうほぼ14,15年か。 そこのかみさんイギリス人旦那オランダ人でかなり流行っていて予約はすべて二週間か三週間前に入れておかねばならぬ。 週末には自家用ヨットであちこちの湖、水路をまわり、忙しい仕事の骨休めにしていたようだ。 子供はそのかみさんの意向からか中学からハーグ市の近くにあるアメリカンスクールにいれており、そのおかっぱ金髪洟垂れ小僧小学校の4,5年のころ見たのが最後だろう。 子供たちもクラスが変われば離れたりする。 で、私がその理容院に行かないのには二つの理由がある。

私はモノグサで約束は極力したくない。 とくに頭の上に乗っていて毎月勝手に3cm以上伸びる髪の毛などという余計なものには極力かかわりたくはないし泳ぐためにはほぼ丸刈りが簡便だ。 だから口ひげ顎鬚は2週間に1度ぐらいはさみでちょこちょこと刈る程度だ。 髭剃りは面倒くさい。 その二つ目の理由は私が今の仕事をし始めたとき仕事場から歩いていける17世紀に栄えた運河に沿って長崎ハウステンボスのような家並みの中に小さな散髪屋があった。 今はそこは児童書籍の店になっているのだが、そのころには昼飯時に外に出かけたついでに空いていれば座って刈ってもらったのがエリックの師匠だった。 

その当時は同じくアンティークの店には三つ揃えの背広に医者のような白衣をまとって葉巻を咥えながら恰幅のいいまるでどこかの重役か社長のような初老の散髪屋に若造がかってもらっている、という風だった。 その師匠がそういう風格があるものでたまたまその散髪屋がフォン・シーボルトが昔日本から帰ってきて住んだものの、当時は町の簡易裁判所の建物になっていたのだがシーボルトがらみで何もわからぬ散髪屋のおっさん日本旅行に只で行ってきた、という話をきかされたしそのときの写真を見せられたことも覚えている。

師匠が引退したときに客と店の内装を引き継いで町の反対側に自分の店をもったのはいつ頃だったろうか。 うちの息子も娘も幼稚園にいっていたころ何回かエリックに刈ってもらったのだが、そのうちエリックのとこにはいかない、ださいから、というようになり息子と女どもはエリックの店から三、四百メートルしかはなれていない理容院にいくようになった。 それが二つ目の理由か、といえばそれが日ごろ読むことがない芸能誌に与太新聞写真コンピューター雑誌におっさん同士がたむろする他愛の無い話で半時間から1時間待ち時間を過ごす楽しみがあるからでもある。

そういう空間というのは子供のころの私が通った散髪屋の雰囲気と同じだからでもある。 村の私の家の前に小さな自転車屋があった。3つ4つのころは家の食べ物がいやならそのうちで食べたといわれた。 そのころの和歌山の茶粥の味は今も覚えている。 自転車屋のおじさんは戦後和歌山競輪の選手だったらしくそのころ馴染みになった芸者と一緒になりどういうわけかうちの前で自転車屋を始め食い扶持は稼いでいたようでよくおじさんがパンク修理をしていたのを日がな眺めていたから物心ついてからはパンクを修理するのは何でもなくなっていた。 そしてこのおじさん、夜になると酒を飲む、母方の我が家は百姓で下戸家系だから飲酒はないし酔っ払うなどということはまったく無かった。 が、このおじさんおばさん、どういう具合かときには叔母さんの三味線の音が聞こえてくるかと思えば夫婦喧嘩ちゃぶ台をひっくり返し茶碗を投げつけるということもあってその間でちゃっかり食事中の私を母親があわてて仲裁がてら迎えにきたこともあったらしい。

その夫婦男の子がいて叔父の友達だった。 小学校中学校の友達で村の青年団の活動もやっていたらしいがその夫婦息子は山の方に2つ3ついった村で散髪屋をしていた。村の中では義理ということがいくつかあり、小学生の私はバスに乗り1ヶ月に一度はその店に行って刈ってもらっていた。 子供から見ても多少はセクシー九州アクセントの嫁と二人で見習いを一人おいてやっていたのだが、その嫁がある日、男と駆け落ちをしてしまいそれを期に散髪屋をやめてしまったのが私が中学をでるころだったろうか。 今思えばフランス映画にあったような寝取られ話だ。 近所ではその話で持ちきりだったこともあり印象深いものだ。 なまじ村での事件は隠微に残り伝わるものだ。

けれどその散髪屋、ヒロッチャンの悲劇は続く。 子供のころから村のダンジリの時期になるとみんな血が騒いだ。今でも多少はある。 このワクワクはもう80にもなろうかという老母でも同じことだという。 荒っぽいもので今はもう警備、規制が厳しく昔のようにはとてもやれない。 昔は他の村のダンジリとすれ違うときには喧嘩腰で、もしダンジリの屋根の上に立つ囃子方が軒先に近ければ屋根瓦を剥がして他の村のダンジリに投げつけたこともあるらしい。 で、あるとき見物していたこのヒロッチャンのところにブレーキが効きにくいダンジリが曲がりきれずに突進してきたダンジリと家の間に挟まれて右手が利かなくなってしまい散髪屋もかなわず、それ以来、警備会社に就職して警備員となっていた。

私の叔父が今、うつ病気味なのだと母は言う。 それは70歳を越した村の同級生でもあり親戚付き合いをする何人かが1ヶ月を隔てず次々に命を落としていることが主な憂いの原因であるのはまちがいない。 3週間ほど前に老母から電話でこのことを聞かされた。

エリックは陽気なおとこで40kgはあろうかという白い老犬を店の中に放し飼いにしているが、このオス犬は年寄りだから大きなかごに始終寝ているのだけれど、昼に一度近くの公園まで一緒に散歩するときにはかごから立ち上がりざま大きな音と匂いで我々の顔を曇らせる放屁を一発してから腹減らしに行くかとでも言うようなそぶりを見せる。

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