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アムステルダムの博術館

2008年02月08日 10:34

アムステルダムの博術館

一月三日にアムステルダムの街を家人に導かれるままに建物を見て歩いて入った小さな博物館なのだが、建築史ではアムステルダム派といわれる建築家のMichel de Klerkという人が設計の「船」とよばれる集合住宅の一角にあった。

ヒップ博物館 (Museum Het Schip) Schip=ship
http://www.hetschip.nl/hetschip/museum/

外気、自然から人間の棲家をいかに確保するかということを昔から骨身に沁みて考え続けておりそこで住む人々の生活と意識の違いを意識しだしたのは、温帯日本を離れて寒帯の外れにある生活環境に住み、昔から冬でも大抵はなんとか凍死しないような環境からそのままでは自然が生存を脅かすような環境を意識し始めてからだった。 勿論、日本でもそういうところはあるには違いがないが太古から北海道に住んでいたアイヌ日本人に囲い込まれなくそのまま住んでいたらどうだったかということはここでは論の外に置く。

1925年あたりの建築家の作品のひとつであるらしい。 当時、新大陸アメリカには建築では摩天楼がどしどし建っていてこれより華やかなものは既にあったのだがそれも大抵は資本主義新大陸で花咲き裕福なものが鉄と石の住居をふんだんにある空間を拡張してそこに住み、普通とそれ以下の人々の住まい旧大陸にくらべるとどうかという、資本が無ければそういう連中は新大陸のあちこちに散らばってなんとか生き延びたような時代でそれが新大陸を開くような勢いにもなったのだろうが、一方、限られた厳しい空間で新大陸が開かれる何世紀も前から集団的、社会的に行き越し、生活してきた人々がその時代の材料、例えばレンガを基にして効率のよいものとして建築史に芸術家意匠として残すその集合住宅の建物である。

1950年代に西日本田舎物心がつき、叔父の一人に昔からの民家を一人で人を采配して建てる大工をもち、大学時代の長い休みにはその下働きのような土方をして過ごし、その建物がどんなものかはおぼろに分かるものとしてはこの集団住宅は、狭い空間を社会的に按配する建築家の、作品を美術館でみるものとしてではなく町の中で観る実際的かつ社会効率的な芸術として設計したものとみた。

その集合住宅区は殆どが今も普通の人が住み、中に入るのはいいが住人に配慮すること、と注意書きがあちこちにみられる一角には当時の住居を再現した一軒が普通のうちの入り口の隣のドアを通してまる一戸分あり、現在と80年前がレンガの壁を通して隣接している不思議さに惑わされそうになる。 台所の様子、当時の空間の狭さ、というより人のサイズや生活程度が上がるにつれ人は如何に広い空間を求めるかというようなことも頭をよぎる。 当時の平均的な人間と世界一の平均身長を持つ今のオランダ人の違いははっきりしている。 これでは少々息が詰まる。

畳の、座って半畳寝て一畳という空間も所詮はそこだけの話、壁も屋根もなければどうにもならず何人も家族が按配して暮らす、暮らしたということでは70年ほど前の日本とここの生活の違いに思いが行く。 貧しくとも自由でかなりの空間を確保するという命題がこの建築芸術なのかもしれない。 自分の暮らした日本の田舎には貧しくとも潤沢な生活空間や田舎の自然の空間があったがここでは夏は短く長い冬の厳しい環境である。 今でこそセントラルヒーティングが行き通っているもののこの時代の石炭ストーブでしか暖も煮炊きも出来なかった時代、ここには風呂さえない。 集合住宅の一角の風呂屋に行きシャワーで済ます。 裕福層でしか風呂に入る習慣はなかったのだ。 そういう意味ではこの建築家社会福祉に幾分か視点を置いた都市計画を試み建築史上意味のある仕事をしたのだろう。 1kmほど離れたところにある現代建築カタログにも載せられている大型コンテナーを重ねたような味気の無いアパート群と比べるとこちらの方がまだ人の棲家とでもいう匂いがある。

この75年経ってこの一角は今当時の労働者住宅から現在の新労働者層、移民及びその子弟、その第二世代の集まる地区と成りつつあるからその機能は今も果たしているのだろう。

レンガの線形建築物に慣れた目にはこの素材を使って美しい曲線美に湾曲したドイツ系ユーゲンシュテイルの飾りもあちこちに見られプロテスタント美術的にはほとんど見るべきことのない乾いた建築物に華を添えており部分的にはまるでガウディを思い起こさせるほどでもある。

この博物館の案内書は角の小さなつい10年ほど前まで使われていたような電報電話郵便局なのだがその電話、電報のための小部屋の湾曲、そのドアの開け閉めのためのメカニズムフィニッシュのタッチに感心したのだが、それから何年も経った小津安二郎の映画で見た東京のビルのオフィスインテリアを思い出したのだがそういえば笠智衆ネクタイを締めて働いていた丸の内あたりのはいかにも日本的なものだった。 全く関係ないが小津の1942年作「父ありき」をつい最近みたからこの連想が湧いたのだがもう何年も前に見ていたこの監督のものにはもっとビルやアパートの内部が出ていたから総合しての印象だ。 比較する方が無理だろう。 ここでは建物を芸術として設計していたのだから。

東京オリンピックで名を成し、バットマン漫画で悪の首都の高層建築揶揄された首都の庁舎を設計した丹下健三はこのとき12歳であり、今にいたるも企業、官庁、個人の建築物設計してきた者は山といるが、一方、住環境の社会福祉的要素に目を向けた都市計画デッサンしていた大物の名を寡聞にして知らない。 

あちこちで企業、官庁に取り入って玩具の建物を作り続けた日本のバブルがとっくの昔に去った今、中国上海あたりで建築ディズニーランドを作り続けたのは10年ほど前、今もあちこちで建築家がもてはやされる中、いろいろな事務所政治との癒着の悪いうわさは耐えない。 土建屋はどの国でも胡散臭い

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