- 名前
- ヴォーゲル
- 性別
- ♂
- 年齢
- 74歳
- 住所
- 海外
- 自己紹介
- もう海外在住29年、定年もそろそろ始まり、人生のソフト・ランディング、心に浮かぶこと...
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引き締まる土曜日
2008年02月17日 13:35
10日ほど前に削ぎ落とした1平方cmほどの右の薬指の平がやっとふさがって夕食のハンバーグを捏ねることで日常の戦線に復帰した。
けれど、というかそれでというか今日土曜日は相変わらず晴れ上がって風も少しある2℃、マーケットの買い物のため公園を通り抜けるときに町の環濠を渡る橋の上にカモメが日向ぼっこをしているのがみられたのだが、そうもしなければ暖をとれないようなのか。 買い物を済ませての帰り道では少々寒く感じてもうあと5分ほど自転車を漕げばうちなのに暖をとるためにカフェーに入るほどだった。
土曜の午後の町の中心から少し離れた古いカフェーは年寄りの常連客ばかりでカウンターのカワイ子ちゃんにブルブル震えながらスコッチを注文しているときにもあちこちから、寒いねえ、なんか引っ掛けないとやってられないだろ、というような声がかかるほどで、とてもビールなんか飲んでいられないようなもので初めの一口を大きく含みダブルの半分以上になってやっと人心地が付きはじめるほどだった。
けどね、さっき外の温度計見たら3℃ほどでこれなら昔の普通の温度だろ、4日ほど前から10度も下がれば寒いとおもうわな、とはジンをゆっくり啜る年寄りの言、そのとおりだと思う。
頼んだ熱いオープンサンドをねえちゃんが若いのといちゃいちゃしていて忘れたのか来ないのでそれでは家で何か腹に入れようと勘定を頼むと、このネエチャン、もう何年もここでバーメードやってるのにジョニ赤ダブルの値段を知らない。 それで逆にこっちにいくらぐらいかしらない?、と来る。 酒屋では1リットルが16ユーロぐらいだからまあ、3.5ユーロぐらいかな、と答えると、じゃ、そういうことで、とそれを払って外に出ようとすると他の連中が、そりゃシングルの値段、5ユーロは取らないと、と笑ってネエチャンに要らぬ知恵をつける。 けれど、知らぬ弱みか一度いったからには薄い笑いを見せていいわ、いちど言ったことだから、とこちらにバイバイする。 ま、こんど主人がいるときに正せばいいことだ。 あのネエチャン、もう少し賢いと見ていたのだが流行の眼鏡をかけてから頭が緩くなったのかもしれないし、ビリヤードの台で遊んでいるイケ面のニイチャンにいかれて頭がのぼせているからかもしれない。
外に出て5時前の道には表示が2℃と出ており体は寒くは無いものの家に着く5分の間手袋をせぬ手がかじかんだ。
家に帰ると日当たりのいい裏庭で日向ぼっこをしていた猫がそれでも中に入りたいのか台所のドアを開けると矢のように中に走りこんだ。 ジャガイモを蒸し、温野菜を煮てハンバーグにワインベースのソースを添えてキノコのバターソテーで夕食にしてワインの酔いも加えてやっと食堂の中は暖かくなったと思えばそとは濃紺の空に月が出て星が同時に普通以上に沢山輝いていた。 外に出しておいたデザートの良く熟れた西洋梨の冷たさも心地よかった。
食後のコーヒーとクッキーで8時のニュースを見ていたら過去の亡霊がちょっとした世界ニュースになっていた。 104歳の老オペレッタ歌手が自分の地元の劇場で4,500人の観衆を前に人生の幕引きをすべくコンサートを開くのだという。 この2,3日オランダメディアのみならず近隣諸国、アメリカからもジャーナリストを集めて終戦記念日ごろではいざ知らず今の季節に戦前、戦中、戦後のこの男の行いを巡って議論を呼んだということだ。 この男にとって命を長らえるのは長寿の意味を持つのか、かえるの面になんとかでは収まらぬ、戦前ナチスに協力し名声を得、ヒットラーに可愛がられ、挙句にユダヤ人虐殺焼却施設でSSのために娯楽をすすんで提供し、戦後はかなりのあいだオランダから追放されドイツに住み、生の終幕に臨み生まれ育った土地の劇場で幕引きのコンサートというらしい。
多分20年ほど前に普通に生を終えていれば何ということもなく、他にも逃亡、政府間の曖昧さの中で生き延びたナチの協力者もいたではないか。 悔い改めることも無く80を越してメディアの追跡の挙句政府間の合意で逮捕されオランダに戻され収監中にいよいよ病弱を理由に仮釈放されすぐ亡くなった者もいた。
けれどこの男には華やかな戦争協力者としてのキャリアーはあっても戦争犯罪人としての証拠がないという。 オランダはドイツ以外ではナチ協力者が一番多い国であり、現女王の父親もドイツ貴族でありヒットラーとも知らぬ仲ではなく、その父親の亡くなる2年ほど前に長年のパーキンソン病でこの世を去った女王の連れ合いも青少年時代はヒットラーユーゲントであったという土地柄である。 国民の怒りと王家の長年の歴史の中でドイツとは切れぬ縁ではあるが、ナチズムとオランダのドイツとの縁にはひねりがからむ。
女王の父親は戦争中はドイツに対して戦い、女王の夫は外交官から結婚を機にオランダ王室員となってからは言論の自由、人権などの面でナチズムとその亡霊、変化するイズムに専制政治、それらの思想にに対して真摯に行動、発言してきたようだ。 それがドイツ人のオランダの中で歴史を自覚した生き方なのだろう。
アウシュビッツを経験した人間はまだ沢山生存しているのであり、音楽家といえども他の幾多の職業、信条を持ったユダヤ人たちと一緒にガス室に送られているから今は104歳になり、生き続けるこの老音楽家を当時反対側から見た人間の心情を想うとその怨執は幾許のものか。
会場の外にはプロテストの人の輪ができ、50mほど離れた公会場ではアウシュビッツで消えた幾多の作曲家の作品を演奏するのだと言っていた。 小人数ながら極左、極右のグループが争い機動隊が警備をする中、公演に入る観客が写されニュースは終わった。
今夜も満天月夜に星夜でマイナス5℃ほどには下がるとの天気予報を聞きながらまた夕方来た道を町にもどり午後2時には主人と話をしていたその古CD,LP店の前に自転車を停めフリー、インプロヴィゼーションジャズのコンサートに向かったのだが12時をかなり廻って今度は手袋をした手で帰宅するとマイナス 2℃、裏庭で見上げた上空のまばゆい星空の中、月光に照らされて多分高度6000m以上を飛ぶジェット旅客機の飛行機雲が鮮やかに見え、何キロも後に続く筋雲が徐々に消えていく様もはっきり見えるのだから空気中の塵や蒸気もないのだろう。
104歳の老オペレッタ歌手は1960年代にはミュージカル、サウンドオブミュージックの舞台でフォントラップ大佐だったかを演じたのだそうだ。高校生の私はそのころ女学生とデートでジュリーアンドリュース主演のこの映画を見ており、その後70年代にはその中の「私のお気に入り」を変奏しつづけるジョン・コルトレーンに惹かれてフリージャズにものめり込んだ。
職業だから思想は関係ない、あの時俺がしなければどうなっていたか分からなかった、他の人間も嬉々としてやっていたじゃないか、証拠が無い、俺のやったことは職業に恥じることではない、というのは散々どこでも聞いたし、東洋の、禊と忘れる文化の国では政治、経済のなかにはそういう者たちが戦後ずっと権力を駆使し、物の繁栄にそれをごまかし、ドイツでは政治の世界では一応の根絶やしをしたものの、一方帳尻をつけず清算もできずに物事が濃い鼠色に染まっているのを世間は景色の桃色に紛らわされて禊を忘れたかのような国もある。
済んだことは忘れた方がいい、というがそれが自分とその国の未来を駄目にする。 日本とアメリカが戦ったことも知らず、どちらがどのような決着をつけたかについてはまるで無知な者が多く無知を恥じることすら知らない者も多いし、テレビにはそのようなものが居直って笑いを取るのだとも聞く。 忘れた、なら思い出すよすがも有るかも知れぬがそれが続けば無知となり、無知ほど強いものは無い、とあきれられることにもなるのだが、蛙の面になんとやら、世間に目がないことは世界から観測されるようでもある。
かつては楽天的に昭和元禄花見の宴と浮かれていたものがそんな楽天、能天気も通過して腐臭も漂い、今は年寄りの戯言を聞く耳も暇も無い終わりの始まりかとも危惧される新世界は、故郷は遠く離れてこそ良く見えるという一面もありそうで、寒い夜中の屋根裏部屋ではそんなことに愛惜、愛憎の想いがつのりそうにもなり眠りに就くのにジンをナイトキャップにしてあと1時間半もすれば夜が明けるという寝床にもぐりこむ。
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