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ジプシーのミュージシャン

2007年07月08日 13:58

久しぶりに上天気でこの何日間かの移り変わりの激しい、涼しく湿った日々からしっかりとした青空がやっと20度を越す温度を運んで、先週とは打って変わっての土曜のマーケットの様子、人々の顔にゆったりとしたものが戻り、我々も何も予定もなくいつもの買い物にこの10年ほど使ったためすり減ったもののまだカンヴァスの生地がしっかりとした皮の紐に支えられて10kgぐらいならしっかり運べる赤い買い物バッグをぶらさげて見知った店を野菜に果物、ちょっとした小物を求めてぶらぶら歩いていた。

今の時期いろいろなストリートミュージシャンがあちこちに出るのだがその人々は他の処か町のほかのところで行われている恒例の野外の催しものに出かけているのか今日はここにはこの何ヶ月か見かけるようになった小さなアコーディオンを弾く子供たちしか見えない。 この子供たちはオランダでは見ない服の着方、物腰で言葉にしてもどこかぎこちない。 ただ街角に腰掛けてアコーディオンを弾くのだがそれも曲になっていない。 何かのコードにもならないキーでやたらと稚拙な音をかき鳴らす。 そういえばこの何年かマーケットの一角にロシアから来たと思しきストリートミュージシャンが見られた。 まだいるのかもしれないが、このごろは見えない。 30代のはじめと思しきその男は座ると一心不乱に重量級で複雑なストップのついた普通見るこののないような本物のアコーディオンバッハなどの本格的なクラシック音楽を弾いていた。 或るときにはベートーベン「運命」アコーディオン版さえ演奏しているのを聞きながら通り過ぎたこともある。

その男はアコーディオンを入れる皮の袋を座った床机の前に置いて、それは通り過ぎる人たちから投げ入れられる小銭のためなのだがたとえそこに小銭が投げ入れられても客におもねる風も媚も売らない。 売るのは彼の音楽だけなのだが大抵のものは素早いバッハクラシックバロック音楽には興味がなく、ただ、年配の老人、若い学生風の男女などが足を止めて聞き入りいくばくかの小銭を置いていく。 わたしもしばしばその男の前を自転車に乗って通り過ぎたり重い買い物袋をぶら下げて歩き去ったりりしていたが殆どの時は私の耳には小さなコードのついたプラグから他の音楽が鳴っていた。

ちょっと聴いたときにこの男は多分ロシアポーランド系の彼の地のコンセルヴァトアールか音楽専門学校で技術を習得したものと想像した。 物腰も凛として楽器の保存もことのほか行き届いていてこの技量ではちゃんとした音楽ビジネスのチャンスがあるだろうもののなんでこんなところにいるのか訝しく思ったもののそれは就労、滞在ヴィザのこと、その他すんなり行かないこともあるのあるかもしれない。 自国に戻らず西側に出てくるものが雪崩をうってEC統合のゲートをくぐろうとしている。 建築部門ではポーランドに対して門が開きうちの近所にもポーランドナンバーの車が目立ちだしスーパーマーケットショッピングセンターでもスラブ系の言葉がしばしば聞こえるようにもなったいる。 彼もそのうちの一人だとしても不思議ではない。

去年のクリスマスの、皆がもう準備もすべて終わろうかという土曜の5時、薄暗くなったほぼ零下何度かの下、ここのマーケットもすべてたたみおわり殆ど人通りもないところに何の用事だったのか、多分いつものことで最後の最後にあたふたと何かを、多分日本に帰省するためのあれこれの土産を閉店前の滑り込みでかき集め市の図書館に戻す本を持ち込んだあとだったのだろう。 その角にその男がまだいつものように座ってスラブ系の彩を持ち込んだ多分19世紀初めの頃の作曲家のものだろう、複雑な曲をいつものペースで弾いていた。 もうだれも通りにはいない。 私は彼の近くに止めてあった自転車に荷物をぶら下げたもののすべて用事を済ました気の緩みからか立ち止まって聴いていた。 その男は目を閉じてスラブ系の、時には感傷を誘う調べをゆったり弾いておりひとしきり弾き終わると指先をすべて切り取った毛糸手袋の先から露出した指に息を吹きかけ暖めていたのだがミサやクリスマスによく聞かれる賛美歌のようなものを普通のテンポで弾き始めたところで自分も家に戻ってクリスマスの晩餐の支度に戻らなければならないことに気づいたから無人の通りでもあり翌年しか戻ってこない、という感傷からか小銭を取り出して前の袋に持っていった。 そのとき予期せぬようにメリークリスマスと彼の口からスラブ訛りの言葉が聞こえ、わたしもそれに同じ言葉を返しその場を去ったのだがそれ以来彼のアコーディオンを聞いていない。

その代わりかこのところ見え始めたのがこの、話にならないほどの子供のアコーディオンだ。 一生懸命やるのだが音楽の形になっていない。 だから人々は鼻にもかけず通り過ぎる。 つまり、人々は或る程度の質の音楽に慣れきっているのだ。 だから子供だましのような音楽には得るものがなく物乞いに銭をあたえるものだけが公共の建物や店のトイレを借りるときに払う小銭の何割かの値をなげいれる程度である。 これを大人がやれば人々は避けて通るか完全な無視だろう。 

しかしこの子供とオランダの子供とはどう違うのだろうか。 現にこの場所でこの子供と同じ年頃の子供たちが楽器を使って弾くことがある。 そして彼らの前には帽子が裏返されたり楽器のケースがあけられており、通行人がそのリコーダーギターバイオリン、時には調子はずれなトランペットを弾く子供たちの前に小銭を投げていく。 それは年に何回かのオープンマーケットのときであり大人や子供たちがガラクタを持ち寄って蚤の市を開いたときで、そのとき子供たちは日頃放課後に通う町の音楽学校で習った練習曲などを一人で、もしくは同じ年恰好の子供たちと組んで披露するのだ。 日頃の練習を披露し、よく出来たと思う大人から渡された小銭をその子供か孫かが受け取って、楽譜と自分の指先にしか注意を向けられなく礼をいう余裕もない小さい演奏家の箱や帽子の裏にご褒美アイスクリーム代ほどのコインを投げ入れる光景がみられるのだがそれとこの何ヶ月かの青空マーケットアコーディオンとは様子がまるで違う。

この子供たちはアイスクリームのためにでもなく自分が習得した技量をみせるために演奏するのではない。 この後ろにはたとえ小額といえどもこれで親、兄弟、家族を支える人々がいるようだし少なくともこの子供の費用に費やされるものとなるのだろう。 たとえアイスクリームを買うとしてもフリーマーケットの子供たちが買うアイスクリームとは重みが違うようだ。 別段迷惑をかけるわけでもないのだから定期的に見回るペアの警官からも容認されているのだろう。 なまじ排除してスリや物取りとして問題を起こすよりはマシだと少々差別的な意図があるかと勘ぐるのだがそれは決して正式には理由には表されはしないもののヨーロッパ各国の観光地で聞かれる話に符合する。 個人的にはもう何年も前に日本から来た家族とブリュッセルで観光した折に経験はしている。 老母が女性ばかりの女子供の集団に取り囲まれて奪われそうになったバッグを取り返したことがある。 そしてもみ合って千切れたバッグを取り返したときにはその7,8人の集団はちりじりばらばらに消え去っていた。 シナリオ通りだったのだろう。

彼らの特徴ある服装、風貌は偏見を誘う。 今はジプシーとは言わないのだそうだ。 エスキモーイヌイットというごとくか、いや、先日はイヌイットというのにもクレームがついているとも聞いた。 東欧から移動して戦争中はユダヤとともに迫害されたのだそうだ。 教育程度、経済的に困窮しているものがおおいとも言われ集団で街から離れたところで生活し定住しがたいために各地で公共団体と折り合いがつきにくいともいわれそのような報道の折にはロマという言葉が使われている。

この子供はこのあと実地で聞き覚えた音楽を発展させ土曜マーケットにくる人たちの足を止めさせるような音楽で飯が食えるようになるのだろうか。 これから時々聞き耳をたててどのように音楽が変わっていくか見る、いや、聞くことにしよう。

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