デジカフェはJavaScriptを使用しています。

JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。

ジョギングの途中で

2007年07月05日 09:29

ジョギングの途中で

ジョギングに出て暗くなる前の公園を走るのは気持ちがいい。

天気がよければ夜の10時から11時までの時間が一番いいだろう。 うちの近所では比較的若い人たちはどういうわけか殆ど午後の9時ごろまでにジョギングを済ませている。 この時間になれば残っているのは別に何もすることのないシルバー世代が多いようだ。 

ジョギングに出ようというのはただ単に走ろう、ということからではない。 走れれば走ればいいが歩いてもいい、というスタンスだからだ。 元気があればはしる。 苦しくなれば歩いて景色を眺めてあるけばいいのだから近所の自然公園は最適だ。 日曜の午後には家族連れで小さい子供が三輪車に乗るのを若い親と孫に会いに来た老夫婦グループが散策するのが見られるような所なのだが温度が低く天気が定まらない昨今、暖かければいる遅くまでピクニックで残るグループも今はない。 まだ数週間待たなければそのような景色は見られないのだろう。 そのころになると本格的なヴァカンスのシーズンにもなる。

夏至ごろの午後10時あたりというのは日常の活動が終わり秋から冬では既に夜も充分長けてそろそろ就寝時間も目前であるのに翌朝の予定がまったくないものには急ぐことのない誠にゆったりした時間であり明るさが残るのに静けさが今の時間の公園には忘れ去られたようにある。

こちらで贅沢というのは、勿論、物質的に豊かだということもあるのだが、とりわけ住空間に静寂を確保できるということでもある。 今時、いくら木に囲まれた邸宅に住んでいても周りの騒音から逃れがたいもので、静かなところに住んでもなまじのところでは住めば住むほど些細な音にも敏感になり音のわずらわしさから静寂を確保できるというのは少々の金を積んでも手に入るものではない。  

静寂というのは只単に音響的に測れるだけのものではないようだ。 人というのは社会的動物で人がなければ生活が立ち行かないものだが人間関係に疲れると戯画にもあるように無人島にあこがれる、というような面もあるようだ。 見栄やエゴから開放されるのは自然の中で一人になるときで、たとえ自然の中でも自分という意識からは逃れられないものだが少なくとも他人からは逃れ一人にはなれる。 私は小さいときから一人で林や森、山を歩くのを好んでいてこのジョギング公園の広大な空間の中、人を見ずに走り、散歩する贅沢を少しは味わうことの出来るのが食後に靴紐を結ばせる力になっているのだと感じて、これは10年ほど前にジョギングを始めた動機とはすこしはずれてきたようにも感じるが、風の音と水鳥やねぐらに戻る鳥の囀りの中を走る子持ちのよさ、快楽原理が牽引力のようだ。

この公園の中では一人きりだ、と書いたがそうではなかった。 水辺の橋を渡るときに岸にほど長く佇む影を見てぎょっとした。 小魚を狙ってじっとうごかない漁師の風貌の青鷺が静寂を破る私の息遣いを疎ましく思いながら静かな水面を眺めているのだった。

このデジログへのコメント

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントを書く

同じ趣味の友達を探そう♪

  • 新規会員登録(無料)

プロフィール

ヴォーゲル

  • メールを送信する
<2007年07月>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31