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叔母のこと

2007年04月22日 13:47

私の幼少時は従姉妹たちに囲まれて育った時期がある。 高校時までは8人の従姉妹とそれぞれ関係の濃淡はあっても近所に住んでいたため法事や慶事にはよく一緒に遊んだものだけれど私はその中では妙な地位を与えられていたようだ。

母の姉には4人の娘がいてその2番目の娘は小学校から中学校へと何回か同じクラスになったのだが私には3つ年上の長女が一番相性が合ったようだ。 同い年の従姉妹は互いに近すぎて何かと牽制するようだったり同級生の中で監視されていると互いに感じていたのではないか、よく距離感がつかめなく何かぎこちなかった。 彼女はその後、様々な曲折を経て今は孫も何人かあるようになったのだがこの10年ほどで我々の関係もなんとか普通に戻ったようなのだ。 同い年で親戚にそのような娘がいるとこうにもなるのかと、自分には兄弟がいない身にはこれが一緒に住まない双子の片割れの様態かというような気分にもなったものだ。 その妹は明るい性格で小さいときから屈託が無い。 一番下は耳が不自由で歯科技工師としてスイスで修行した歯科医師アシスタントとして長年自立していて私が日本を出る頃、30年程前には何ヶ月かその歯科医にさまざまな口内工事をしてもらったことから仕事の帰りによくその助手の従姉妹と食事をし一緒に村に帰ったものだったが嫁がず自宅で祖母、父母、長姉たちと暮らしている。

私は叔母たちの中で美形のこの従姉妹たちの母親近親感を抱いていた。 大家族の中を切り盛りする様子を母からよく聞かされていた。 いわく、戦時中若いときには寺に集まる若い将校たちから思いを集めていたものの本人はそれに気づかず、戦後50年も経って母からそのときの様子を初めて聞かされ、齢70を越して今更聞かされてもとその残念さに赤面したのを実際私はこの目で見たのだが、そのころの現実は、遠縁の中で自分もこころよく思っていた許婚が出征、戦死したため家どうしの取り決めでその家の家主となった弟に嫁ぎ高慢無知な姑女に仕え姑、姑女を看取り村では名のある家ながら内情は火の車らしいものを世間体を保ったのはひとえにこの叔母である、と母から聞かされていた。

長く痴呆症から徘徊、無理難題を重ねてきて床につききりになっても難儀な姑女を最期まで看取ってその間には見かねた看護婦でもあった母がその点滴治療に姉の家に通い、その折に家族の煩わしいものを一部始終を見ていた。 自家には問題らしい問題もない私の母親の目には自分の姉の家の様子が痛ましいものに映ったのだろうし姉に同情心も湧いたのだろう、自分の天下がすぐ目の前に見えている、これから好きなことが出来ると励ましていたらしい。 しかし、そういう自由が訪れて10年もしないうちに姑女と同じ様になってしまうプロセスを私たちは日本に帰省する毎に見てきた。 10年程前には我々の子供たちを可愛がってくれ歓談できたものの、その後徐々に認知症が進み去る年末年始の時期には寝たきりとなっており、この半年ほどは兄弟で一番仲のよかった自分の妹をも認識できないようになっていたから我々に対する反応はまったく望めないのは当然のことだった。

毎週の深夜、老母と互いの近況を一時間近く報告しあうことになっており、大抵は私が様々なことを聞くという役回りになっているのだが、今回そこで老母から弱音が出た。 兄弟を持たない自分にはそれを失う気持ちが理解できない故、慰めの言葉も空ろに響くことは分かっているので言葉もないのだが、別れはもう半年前についているはずだとぐらいしかいえなかった。 そのときからは今が想像できたのは当然な理の行き着くところである。 目の前にいるのは叔母ではないと何回もいい、それを口では納得しているといってもしきれないのは当然である。 齢84というのは叔母の父、私の祖父の享年でもある。 祖父は病院を拒否し癌の再発を自宅の床で結末をつけた。 最期まで意識ははっきりしていて受験期の私は祖父の好きな浪曲落語LPを自分のステレオ装置からヘッドフォーンで10mほども病床まで伸ばして聞かせたものだがそれも痛みが激しくなるにつれてそれにも集中できずモルヒネが入るとその後は早かった。 

どうも家の家系には癌で亡くなる者が多いようだ。 この叔母も認知症の影で気づかれなかったようだが癌の進行も昨今の衰弱に影響しているらしいと気づいたのはもうとっくに後の祭りだとは老母の言、最高血圧が80をすこし超えたあたりなのは既にお迎えが家の中に訪れている兆しだともいうから医者はもう数日とも言わないらしい。 この文がネットに乗る頃には叔母は他界しているはずだ。 最後に叔母を見たときにはその顔は死期の迫った祖父に酷似していた。

家族は既に葬儀の準備を始めている。 私は出席せずに弔電で済ませるのだが今年の初めには祖父、祖母、親戚の眠る墓地には我々オランダから訪れた家族がいつものように参拝し叔母の入る墓にも花は供えてある。

こちらは今、八重桜が風に花吹雪となりピンクの塵が道端に集まっている。 

合掌。

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