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雨で思い出したことがある

2007年06月23日 10:52

雨で思い出したことがある

車でスーパーに買出しに行っての帰り降られた大雨で渋滞する車のなかから眺めていて思い出したことがある。

もう四半世紀以上前にオランダの北国グローニンゲンとかフローニンヘンといわれる町に住んでいて、丁度夏至が近づいた今の時期、夕食後何時間も明るいことをいいことにサイクリング用の自転車で何時間も田舎道を走り回っていた。 地平線が見えて広々とした牧草地には風の音、小鳥の囀り、牛が草を食む音ぐらいしか聞こえず、田舎道を遮蔽するものが何もなく遠くにこんもり見える木々の塊はあたかもに散らばる島かと見まがう農家の周りの林でたとえそこに雨宿りしようとしても公道から私道に入り時には1kmは入らなければ届かない、というようなところだったから急な夕立や豪雨にあっても遮蔽するものは何もない。

オランダ北部やこの100年ほどで干拓されたアイセル湖に面するフレボランド・ポルダーは特に広大な景色が広がっているのだが他の田舎で育った子供たちもこのような風景を時には10km以上毎日自転車で通学することが普通である。 私のように好き勝手なときにサイクリングの途中に雨に遭いびしょぬれになるのは、日常このような通勤通学をする者にとっては何事のものでもない。

初めて廻りに何もないところで夕立にあった経験で学んだことがある。 それは別段複雑なことでもなく案外あっけないものだったのだが、それまで雨に降られたときには大抵雨具の準備もあり無くても簡単に雨宿りが出来たことから無防備なまま体の芯までびしょぬれになった経験がなかったので大海に放り込まれた気分だったから、そこですることは単純に目的地に向かってべダルを漕ぐことだ。 大げさに言えば助けてくれるものが何も無いことを自覚して覚悟を決め、地平に向かって自分の住処まで10kmか20kmか、何も期待せずただ何事も無いかのごとく漕ぎ続けることだ。

それが田舎の子供たちの日常で雨が降っても風が吹いても、特に、このような平らな国では風の向きで体力の消耗度が格段に違うから、まさに背に風を受け、という快感がある反面、向かい風でこのような距離を雪が降り凍る日々にも日常のこととして受け入れて成人するのがオランダ気質を形成するのだろう。 我慢強く泣き言を言わず着実に目的に向かって単純作業に励む。 それも昔からの船乗り気質とも共通するだろう。 足腰が日頃の自転車で強くなる、というのはあながち肉体だけでなく精神の足腰、スタミナの強さにもつながるのかもしれない。

このように考えたのは叩きつける雨の中、交通渋滞の車の中から眺めた風景の中に15,16歳ぐらいの娘が道路に平行した自転車道をびしょぬれになりながら長距離サイクリング用の前かがみの姿勢をとりながら普通の自転車で急ぐ様子も無く通り過ぎていくのを見たからだ。

山が無い、というのはこういう精神状態をつくりだすこともあるものだなあ、との感慨をもった。 あきらめない、という気質でこれは、仕方がないということの対極にある。 多くの人が、古くはアイセル海を半世紀ほど前に堤防で堰き止めてアイセル湖にした30km以上ある一直線の堤防をマラソン、徒歩、サイクリングで行ったり来たりして楽しんでいるが、それは私の好みではなくここを通るたびに車でよかったと思うのだし、私の知人の一人は北部フリースランド州から来るときにはこの堤防をカワサキレース仕様バイクで走るのだが堤防の上は平均時速200kmでネズミ捕りを気にしながらハンドルレバーを握るのだそうだ。 彼はそういえばどのような少年時代をすごしたのだろうか。 町の人間なのかも知れない。

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