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ロンドンの月; 見た映画 May 07 (6)

2007年06月08日 10:52

ロンドンの月

 (1995)
月満英倫
FOREIGN MOON

91分
製作国中国

監督: チャン・ツーミン 張澤鳴
 
出演:チェンシャオシュアン陳孝萱
リュー・リーニエン劉利年
チェン・ターミン 陳大明
シエ・チアンシュン


ロンドンの月(月満英倫)
異国の地ロンドンで暮らす3人の中国人男女の物語。音楽大学へ入学するため保証人を頼って単身ロンドンにやって来たランランは,大学へ入学させてもらう条件が保証人息子結婚することだったことを知り,保証人の家から飛び出してしまう。
ランランロンドンで頼る人といえば,この街に着いた時に,右も左もわからない彼女保証人の家まで親切に連れて行ってくれた中国人・スートンしかいなかった。スートンは,金を稼いで移住する目的でロンドンにやって来て,中国に残した妻子がビザを取りロンドンにやって来るのを心待ちにしている。スートンと同居しているトンリンも,同じように夢を求めてロンドンにやって来た中国人のひとりだ。生活苦に陥ったランランは,男2人のアパートに同居しながら中華料理宅配の仕事を手伝うことにしたが,予想どおり破局が訪れる・・・
夢を抱いて外国に渡った中国人が現実の生活問題に直面し,当初の音楽家になるという目的を捨て,生活のために労働者にならざるを得ないといのは,姜文主演のテレビドラマ北京人在紐約(ニューヨーク北京人)」と同じパターンだ。
こうした外国を舞台にした映画は,中国人の生活を描いていても大陸臭さがないので,なかなかシャレた中国映画として楽しめる。それでいて,内容は異国の地で暮らす人々の不安,寂しさ,つらさがよく出ていると思う。異国の地での中国人同士(チャイナタウンも含めて)の助け合いの心もさすが華僑の国の人と納得させられる。特に親子ほども歳の違うランランをスートンが常にかばい,大切にし,節度をもって愛する様が観ている者を安心させます。異国の地で20歳の女性ランランが本当に頼りにできるという男という気がしました。
ロンドンの月』という題名は,宅配の事業が軌道に乗り始めた時に3人が「中秋節」を祝うシーンから採ったものと思う。遠く離れた中国からも家族が見ているであろう,同じ満月を見ながら,お互いに自分の夢や過去を打ち明けるのだが,遣唐使阿倍仲麻呂の「天の原・・・三笠の山にいでし月かも」を連想させ,望郷の念に強く駆られるシーンだ。
ラストシーンでは結婚を控えたランランがスートンに真実の愛を打ち明け,スートンもこれを受け入れます。でも二人は駆け落ちしませんでした・・・恋愛映画ならそういうドラマチックなストーリー展開になったのかもしれないが,監督の真のねらいは,金儲けのため安易に出国しようとする自国民への警鐘だったのだろう。ロンドン結婚式を挙げたランランだって,決して幸せそうな表情をしていないのだから。
スートンを演じた劉利年は,『芙蓉鎮』で主人公・胡玉音の最初の夫の役で出てました。

以上が「中国映画への招待」サイトに掲載されていた解説である。


アジア人西欧各国に散らばって各々の活動に専念している。 自国の企業の尖兵として派遣され何年か暮らして次の派遣国に向かうか自国に戻る場合が日本人日本人家族に多い。 だから彼らはその国の経済に貢献される客として待遇され、何年かの異国滞在を過ぎれば自国と比べつつも不便さをポケットにその国の好ましい思い出を写真やみやげ物とともに引越し業者のケースに収めてその国を去る。 彼らにとって居つくことは端からプログラムの中にない。 長期滞在もそのような経済関係の中ではあることはあるが圧倒的に少数である。 そのほかの、居つくものについては会社、文化、家族のシガラミから離れ、違った経緯で異国に何らかの新関係を紡いでそこに住む意思をもって滞在する者たちであるのだが彼らが他のアジア人に比べて質量的に比較できるほどのコミュニティーを形成しているのは幾つかの例外を除いてはあまりない。 それに、その例外にしても中国人コミュニティーには遙かに及ぶべくもない。 どこでもコミュニティーの中心は男たちである。 それでは、日本人の男はそのようなコミュニティーを作らないのかというと、大抵は作らない。 男の絶対数が少ないのであろうし、個人的になんとかやっていけるのでそのような共同体も必要としないのかもしれない。 それに、そこに同化しているから。

イギリスにとってアジアというのは中東でありインドであった。 ロンドンのさまざまな地区には旧植民地諸国から移り住み着いた人々がそれぞれの島とも言うべきコミュ二ティーを作っている。 それは世界中の都市でみられることであり、そこでは必ず中国人コミュニティーも見られるのだが彼らは同化して成功したもの、食うや食わずで妻子を故国に残して渡ったもの、体一つを資本になにかのツテを頼って訪れる新参者たちである。

子供に何らかの可能性があるとすると将来に向けての最良の教育を授けたいと願うのは殆どのの親の常である。 だが、希望が必ずしも現実に向かうとは限らない。 しかし、日本の若者にはこの20年以上経済的発展に基盤を置き、今はいささか弱くなったとはいえ、世界に冠たる円の力で若者が、訪れた国が夢のディズニーランドかはたまた言葉を駆使できなければ生き抜くことも難しいタフな現実世界かを見る機会を与えられているようだ。 私事、何回かロンドン滞在の折、そしてロンドンだけでなくヨーロッパの他のかなりの都市で、日本料理屋で働く若者たちと話す機会があったのだが、勉強目的できたものの、、、、滞在許可が、、、、帰ろうかどうか、、、しかし、ま、言葉を先ず勉強して、、、、という者が多かった。

比較的裕福な家庭から渡航したものは別のサーキットに入る。 料理屋でアルバイトなどすることなく、知人を介して適度に地元の社会と接点を持ち言葉を習得して他の国でも縁を見つけるなりそこに住み着くなり故国にもどるなりして海外経験をすることとなる。 また、日本人海外での国際結婚の割合を見ると圧倒的に日本女性と非日本人男性のケースが多い。 欧米では特にそうかもしれない。 欧米に長期滞在、もしくは住み着いた日本人男性のストーリーを聞くのは非日本人男性と結婚した日本人女性(日本は今のところ二重国籍を認めないので元日本人女性が多いのだろうが)のストーリーを聞くより興味深い。 日本人女性の、日本人女性だけではないが、夢と希望の渡航は単に語学研修ホームステイとして個人に結実したものだけではなく、この100年のアジア欧米化を目指した行き着くところである。

この映画でもこの構図がステレオタイプ化して示されているようだ。 才能ある女子学生がその夢を自力で果たそうと格闘して居残り組の生活に日々格闘する階層から成功組の中に花嫁として入るプロセスに対して妻子を本土に残し文化大革命の傷跡を生き延びるべくロンドンで若い世代と共にどこにでもあるテイクアウェー中華料理屋を屋根裏部屋で始めて挫折、本土から渡航許可がおりない妻子のもとに戻る男を交差させる。

男は稼がねばならないし女は玉の輿に乗りさえすればいい、という古今ありふれた構図に落ち着くのがこの映画でありヴィヴァルディーも所詮は飾りにすぎない日本の1960年代をみるような錯覚に陥りそうだ。

本土に戻る男に対して、かつてボディービルで鍛えた肉体ロンド娘をベッドのなかに誘うべく怪しげな東洋哲学を駆使して体一つでロンドン渡りあるく、アメリカ経由と思しき、中国人若者が今は浮浪者となって町をさまようのは何の謂いなのだろうか。 

メロドラマの域を出ない。

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