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Japon ; 見た映画、 June 07 (1)

2007年06月05日 09:39

Japón

122分
Mexico/Spanje/Duitsland/Nederland, 2002
監督: Carlos Reygadas
撮影: Diego Martínez Vignatti

出演: Alejandro Ferretis, Magdalena Flores, Yolanda Villa, Martín Serrano
Kleur, minuten
Distributie: Contact Film Cinematheek

メキシコ映画の新星、カルロス・レイガダス。処女長編「Japon(ハポン)」カンヌカメラドール特別賞を受賞。

露骨な性描写が一部で物議を醸したようだが、それは決して荒唐無稽なものではなく、むしろ必然の内に留まっており、レイガダスが提示する圧倒的な表現力の一部に過ぎない。堂々とした画面作りは確信に満ちており、ほとんど巨匠の風格を湛えている。まったく恐るべき映画作家である。 と、どこかに解説されていた。

この映画を観る者は最初から、杖を頼りに憂いを含んでメキシコの荒野に入る男を追うことになるのだが広大な田舎土地を背景にこの自然には映画はこうあるべきだという風な空間を持たせたテンポで進むのだが、この映画はドラマであるのだから観るものは主演の男には演技を期待するのは当然で男もそのように振舞うのだが後の出演者にはそれが見当たらないほどの自然でありこれがドキュメンタリーであるといわれても納得するかもしれないし、見ることにすれっからしの観客にはカメラとそのほかのスタッフがこの映画のストーリーを追う設定ではドキュメンタリーではありえないと半眼で答えるに違いない。

主演の男が演技するのは当然だと書いたが見た後でほとんどBGMがなかったと錯覚するほど静謐な作品の中で雨の音や男の息遣い、立て付けの悪いドアのきしむ音などが豊かな日常の効果音となりこの男の内面に沈降し男の過去をさぐる助けにもなるようだ。 それにこの男の好むショパンから甘さと悲しみを除いたようにも聞こえるクラシックやズタ袋に入った画集のページに添った現代音楽以外は排除しようとするのは村の居酒屋のほの暗い庭で強い酒を飲んでいた際、村の男たちがカラオケを始めてそれにいらだった男がその装置酔った勢いで投げつけて壊してしまうところにも現れている。 本人はそのとき耳に差し込んだイヤホンから自分の好みの音楽を聴いているのだからこれも都会の喧騒から逃れようとしても逃れられないという現実の謂いか。

私にはこの男の物語はともかくとしてこの男以外に興味が惹かれた。 そこでは演技プロットがどうかと斟酌することももはや不要なドキュメンタリーであるからだ。 貧しい村の保守的な仕組み、寡婦の生活、子供たちの珍しい訪問者に対するまなざしとアプローチの仕方、村の男たちの異邦人に対する態度、等々に世界中田舎に共通するものが見られるだろう。 現に私自身の少ない経験でも日本の田舎で経験したことを反芻してみて納得できることであり、だから人間の営為の歴史的現実をなぞるものだといえるだろう。

半世紀ほど前までは日本でも普通であったような、村の中には精神、肉体障害者がおり日常では老人から子供までが現実の中で混ざり合って生活する世界があり、世界を逃れた男が行き着く地の果てには緻密なミクロコスモスが息づいていて、そこで自分を救済できるか、というのがテーマであるかと途中で思い至る仕組みでもあるのだが、生は性でもありここで性に執着する男は礼儀正しくその執着を老婦に乞い、老婦の対応も甚だ敬虔なカトリック信者には真摯かつ人間的である。 ここではこの老婦には慈悲だけではなく自分の生をいきる、ということも踏まえた人間的な行いがカメラの前に示されるのだがこれが露骨な性描写と捉えられる背景には今の社会に蔓延する、「俗情との結託」に疑問をもたない性描写ステレオタイプになれたものが性の現実の一面を見るときにその現実を示されたことに対する痙攣的反応がこれを露骨といわせるのだろう。 現実は露骨である。 その現実から逃れるための装置としてポルノが機能するとすればここでの描写はそのポルノからはもっとも離れたものである。

この男が羽織る赤に黒の格子模様の厚いジャケットが老婦と男の関係の変化を語る小道具になるのは肉体をただ単に触れ合いその余韻の親和力に任せたからだけではない。 老婦の生がカトリック倫理に従い現実を生きるうえで理無造作にベッドに投げられたジャケットのポケットにいくばくかの金を見つけた後に男の屈託を理解したからでもある。 

男を代表する都会の洗練と老婦の田舎の自然が交差するのは、この「芸術映画」が男によって老婦に示された現代芸術初期と思しき画集を眺め現代音楽を、今では世界中若者が日常にアクセサリーとも見まがうイヤープラグから流れるのを二人で片方ずつ耳に差し込んで聴くときであり、素朴とも取れるその芸術観の吐露がすばらしい対話になっているのだが、これが多分、がけふちの草原で腹を割かれた馬の臓物近くに横たわる男のシーンと並んでこの監督が自分の映画であると刻印する作為の瞬間であろう。

男が自己救済、自栽のためにズタ袋にいれて持ち歩く、ドイツ将校が腰にしたためていたであろうルガー08拳銃の手のひらにしっくり来る細かく刻まれた木製グリップの感触は戦争中に幾多の兵士が敵にこれを向けるだけでなく自栽目的にも数限りなく使われたものである。 この男が果たしてこれを使うことがあるのかどうかについては我々は他の映像を待たねばならないのかもしれない。

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