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見たDVDなど Feb. 06 (1)

2006年02月01日 22:10

ここ数日でいくつか続けて映画をみた。 普通、何週も全然見ないこともあるのに、また反対にばたばたと続けて見ることもあるのだなあとひと事のように思って、どうしてなのかとも考える。

テレビガイドで日本のものやジャズプログラム、面白そうな映画があればほとんど全てひとあたり録画しておくのだが、もう何年続けているのだろうか、それで、脈絡もなく数百本の箱にも渡り、240分のビデオカセットだからその中に100分ほどの映画であれば少なくとも2本は入るから全部でかなりの数になり収納スペースに難渋することにもなる。 技術的にもCR-ROMやDVDといわれる時代になっているのらしいからテープの画質劣化のこともあるし家族からももうそろそろやめるようにも注意されているのだが、なかなかふんぎりがつかない。

それにビデオのばあいは再生機が居間のテレビ受像機の上に置いてあり、それを見るためには自然にソファに坐って見るという形になり、勿論子供たちは自分たちでゲームをしたりファンタジー映画のDVDをPS2のゲーム機で再生しているのでDVDも見られるのだがDVDというのにもわたしはまだ妙に踏ん切りがつかなかいままでいる。

これは20年ほど前にCDプレーヤー我が家に来たいきさつにも似ている。 LPの後退を横目に新興のCD音質ではジャズを聴くのにその音質の薄さでは到底満足できなく踏ん切りがつかなかったものの、クラシックコンサートホール静寂、透明、臨場感に惹かれてついに、というおおげさな言葉をつかってしまうほどの感慨をもって、当時の新しいステレオ装置とともに購入したのだった。

けれど去年あたりからいろいろなところでDVDをしぶしぶ買うようになってきた。 まず、ジャズのCDについているもの、落語全集、何かの折にプレゼントされたもの、等々。 そこには知人から渡ってきたいかがわしいコピーのアダルトものまで、夜店のガラクタ市の様相を帯びてきている。 

伊丹十三の「お葬式」はずいぶん前に見て感心したものだ。 それでまた久しぶり見たのだがプロットは簡明であるから細部に目が行くのだが今回は宮本信子首筋東京だよおっかさんの当て振り霊柩車の正面、主人公夫婦の乗るミニクーパーなどだった。 大島葬儀シーンとの相違は両監督の立つ位置を対照して、それぞれを論じるのに安易な導入になるかもしれない。

熊井啓監督、黒澤明脚本という山本周五郎原作の「海はみていた」
タイトルクレジットのあと江戸時代集落というのか、まちというのかそういうものの俯瞰の景色がCGででてくるのだが、博物館でみるようなミニチュアのようで、ただカメラが下に降りる体裁になると蟻のようにうごめいている人々がそれぞれ人間なのが多分ここでは眼目なのだが中途半端な感がしてならない。 人情話であるにしても、果たして原作の人情話がそうであっても、あくまで今まであったような黒澤のおしつけがましい鼻白む語り口もあったようなのだ。 それは同情した女郎たちが若い娘のために自分たちを犠牲にして夢をかなえさせるために娘を苦界からひかせようとするのだが、その夢が誤解からだと分かったときに一人の女郎に憤慨させる場の描き方が戦後すぐの黒澤のかたりくちであったようで妙な押しつけがましさと、これは違うなあとしらけ気味になったのだ。 考察の余地はあるかもしれぬし、すでにこのことはいろいろなところで述べられているのかもしれない。 黒澤のかなり根幹部分に帰する部分だろうと推察する。 

それに男の顔ののっぺりとした存在感のなさにはあきれるほどだ。 女たちはまだしも、悪者にしてもアクがない。 どうしたものか。

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