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見たDVDなど Feb. 06 (6)

2006年02月08日 21:23

肉体の門 / 田村泰次郎 原作 / 鈴木清順 監督 / 宍戸譲、野川由美子 / 1964


戦後文学史にも映画史にも名前が挙がっている作品であるのだが、今まで観る機会を逃していた。 けれどもどこかで選ぶのに逡巡するところもあったのも否めない。 それが、どういうわけか今回手にとって、やれやれそれでは、、、という気持ちで観たという経緯もある。 それは何かと言うと、自分が生まれる前の時代、物心ついて既に戦後直後の物事は過ぎていたもののまだセピア色で間接的に作り上げられた記憶がかすかな温度をともなって居場所を求めていた時代なのだ、私の中では。 それに私の親たちにしてもまだ当時、高校を出たかどうかという時代なのだ。

設定もせりふもこの時代の映画の常で舞台仕立てである。 子供の頃、まだ白黒テレビの時代にはよく劇場中継というものもあり、新国劇の平らな幕間のやりとりから、レビューの電飾を満載した階段がせりあがってくる3D仕立てまでいろいろ新興メディアテレビで放送された。 そのなごりが焼け跡の廃屋にたむろする、そこがこの映画の主要舞台なのだが、売笑婦たちの棲家に舞台装置として、この監督特有の突然の色彩照明と相まって古風なまでに劇場の芝居に映画が寄り添うしかけである。 前日「沙羅双樹」を見た後でこれを観るのだから、その間の日本の演劇、映画の推移、とくにせりふ、脚本、カメラの目の変化がはっきり対照的に観察される。

戦後というのはこういったものだったのだろう。 やたらと走り回り、時にはしばしば話し相手の口角泡を飛ばす口元まで自分の顔を近づけてそれに負けじとばかりに対応する。 もちろん、小津安二郎のような静かな家庭も戦後であるのだがけれど小津の映画の中にも背景とし市井のひとびとがこのように登場するのだから、それに東京物語の中で杉村春子の家族の中で作られた美しさから現実に戻す働きをする名演技をみせるのも戦後の現実ではなかったか。 人はそれを避けたいけれど杉村に避けられない現実を見てやりきれない思いをしたのではなかったか。

話は飛んだ。 といってももともとはっきり寄る辺があるわけでもなく書き始めたのだから思い出すままに書いているのだが、もう一つの逡巡はこの原作が文学本来の内容としてではなく好色文学として喧伝されたことがあったからである。 事実、このDVDは18歳指定まであるのだし、いつの時代でも性表現が話の種に挙がらないことは少ないにしても、現在、当時のものを観るくすぐったさ、現在のなんでもありそうな時代に記録として見ることのむず痒さをもって観始めたのだ。

確かに内容そのものは肉体を売って生活する女たちが主役であるにしても、その颯爽たる姿、テンポの速い発話、一瞬か二瞬現れる裸の後姿の視覚的表現には猥褻感と想像される感情が湧き出るどころか、それではちまたにあふれる風俗は何なのかとあきれるぐらいで、現在18歳指定とする意味が皆目理解できないでまごつくのだが、多分、1964年製作時からの指定がそのまま持ち越されて今の間が抜けたラベルと言う風に至っていると想像した。

宍戸譲や和田浩二という人たちは別として、野川由美子の美しさ、新鮮な様子に感動した。 というのは何年か前、NHKの連続ドラマ「都の風」というのに凝り固まって、すべてビデオに取って保存している人がいて、それを借りて全て見たことがある。 何年前だろうか、3,4年まえか。 ドラマ自体はもう放送されてから10年は経っていたに違いないが、そのなかで大阪料理屋の女将として出演していた姿が印象的だったのだ。 それで、思いもかけずこの映画で若い頃の姿をみて感心したのだが、これが一番の収穫だったかもしれない。

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