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決断-3の2

2007年04月15日 13:26

全ての人は長い人生の中、何度か支路に立ち、何かを決断しなければならない時がある。その場合自ら進んで選択する場合もあるが、自分を取り巻く諸環境から選択しなければならない時も出てくる。私は今までに大きな結論をすべき時が三度あった。その中の二番目からその時の気の向くままに書いてみようと思った。
初めての会社に入社し、技術部に配属となった。他の同期の者は直ぐに実務に入り、上司の補佐として設計に携わっていた。私は部長直轄で、社内技術部標準化作業に回された。週に一度部、課、係長に同席してもらい、我々の作った草案に対しての意見を聞き、次週までにまとめと同時に次の草案作りに入る。なんだかんだして半年程で出来上がり、それは解散し私は実際の設計に配置換えされた。同期の者は既に次の設計に入っていて、私は遅れを意識し大分あせった。本屋に行って数冊の技術書を買い、また会社の図書室でも物色し、1,2週間それに没頭した。
2年半程した頃、同僚で友人だった一人が他の会社に行くと私に継げた。彼は次の会社からアメリカへ行くのだと言った。当時私は海外へ行く事等全く眼中にはなく、彼をうらやましいとも思わなかった。彼は退社後半年位で渡米する事になり、会社は別になったが、元の同僚や先輩達が羽田空港まで見送りに来た。当時海外へ行くのは大変少数で、無論私も見送りに行った。
渡米後彼から何度か手紙や一度は録音テープが送られてきて、その中で「日本とは違った色々な事があるから、お前も一度来た方が良いよ、そかも若い時の方が良いから是非来いよ」と再三言ってきた。初めの頃は私には未だ働いてはてはいたが、年老いた父と母が居て、長期で両親から離れる気もなく全くその気は無かった。然し何度か言われている内に次第に傾斜していった。
その頃から部長にこの会社で海外への機会は無いのかと打診した。私に同調していた者も何人か居て、会社側も多少歩み寄ってくれたが、この会社では当時ベネズエラ工場があるだけで、その頃から週一回先生を呼んでスペイン語の教室が設けられた。
然し色々突き詰めて考えると、生産工場では我々技術者よりも、生産技術者が必要で我々にはその機会が殆ど無いと察した。

 続く

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