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傷跡

2007年02月18日 11:23

義父の調子がはかばかしくない。 

ま、80を越せば誰しも何がしかの持病や過去の危なかったことの一つや二つはもっているし、若い者からすればそろそろお呼びがかかっても不思議ではない、と考えるものだ。 5年ほど前に肺がんで弟をなくしその義妹を3ヶ月ほど前に送り、地元の盆栽協会の理事をしていた兄を2年ほど前に病院感染エイズで失い、その年では今度は誰の番かということも村の日曜礼拝教会で顔ぶれを見ていると当然の話になるものだ。 私もそれぞれそのおじ、おばたちをを感慨をもって送った。

戦中、戦後と世の中を見て来、今ひ孫も何人かいるまでになりゆっくり余生を楽しんでいい時に長年の苦労が体のシステム疲労を早めている。 気管支喘息糖尿病の毎食前のインシュリン注射はもう日常になっていたのだが子供たちにしてみれば昔あれだけ飲酒喫煙の生活をしていれば当然だというけれど戦前戦後は酒は飲めないと、タバコぐらい吸えないと、というような風潮があった。 私の若いときもそうだったし、今も多少とも残っているのではないか。 けれど、今、昔のことが応えてくるのはそれだけではない。

私が初めて義父に会ったのは日本人パリオランダ女性フランス語家庭教師を殺害してその体を喰ったという事件の直後だった。 初めての会話が、お前もうちの娘を喰うのか、というジョークでこちらが喰われてます、というのが精一杯の返事だったのだが、そういうピリッとしたジョークを言うぐらいであとはどこでも人前では控えめな紳士だったのだがその過去を家族から徐々に聞くに及んでああここでもか、と思ったものの当然であり、これが私たちの親の生きてきた時代だったのだからだ。 

私の物心がついてからはいつも戦争の影がつきまとわっている。 それを我々はこの前の戦争というのだけれどそれは第二次湾岸戦争ではない。 二十年戦争といったり太平洋戦争というものを含む第二次世界大戦である。 この人もそれを引きずっている。 というより頭から離れないのだ、システム疲労が進むとそのようにもなるらしい。 そうでない人もたくさんいる。 現に今日義父のうちで話した教会、家族の友達の老人は過去は似たようなものではあるが、過去の醜いことも清算しなければしょうがない、でなければ前に進めない、といって屈託がなかったが、それも性格というものもあるようだ。

二十歳にならないうちに隣国ドイツに占領され強制労働のためルール工業地帯で数年すごし言葉がわかる人間どうしが一方を家畜のように扱うのを、いや扱われるのを経験し、味方の爆撃があるときには防空壕の外に置かれ、戦後は敵国日本が占領していた旧植民地インドネシア独立を抑えるために兵士として惨めで寒い北ヨーロッパから熱帯のインドネシアで幸いなことに銃火を交えることもなく帰還したもののそれでもかなりの重荷であったようだ。 

数多の兵士、被占領民が経験するように厳しく耐えられない記憶を暗黒に閉じ込めることがあるようだ。 籠もりがちで言葉少ない人ではあるが他人には自分の体験は理解できない、と家族の同情を厳しく拒絶する。 自分の体験を時にひりひりするほどの気持ちで家族に話しても沈黙で迎えられるもののそれでも繰り返さずにはいられなくそれが疎まれ結局自分の腕の底に収めて無言、退役軍人会にも関心がない。 そういう中年は掃いて捨てるほどいるだろう。

中年には仕事があり家族を養う仕事もあり気も張り体も思うとおりに動くしそのことを当然とするのでこの闇も心の意識の中には浮かぶことが少ないのだが、余生を油絵の模写、工作や妻の伴侶として表向きには穏やかな隠居生活を何とか続けていく健康が保たれていれば幸いなのだがそのように徐々に薄暮のかなたに消えていくのが普通のこととされているところで、このところの暖冬ではありながら湿度の高い気候に喘息肺炎の症状があるとして入院した。 はたしてそうだったのか疑問が残るとも言われている。

その前から義母の訴えがありうちの人は何時間もソファーに深々と身を沈め、新聞を読むわけでもなくテレビも絵筆にも興味を示さず何やらおかしなことをいうと言われていたが我々がでかけると別段そういうこともなく普通にしゃべるのでそれでは息子たちがたまには誘い出してどこかにいこうと話もしていた。

2,3日の入院と、その間の義母の休息、患者の訴えに対する検査結果はさしたることはなし、退院して結構、というのだったが冷ややかな病院の部屋が気に入らず夜中3時に急に、オレは帰る、と言い出した。 子供ではなし、普通にそれで帰れるものではないのは周知の事実だから、ゆっくり休息して翌日帰ればいいと当直看護婦に言われたのは当然である。 何があったのかこのころから少々錯乱気味だ。 そこで押し問答の末、警備、警察の人員が呼ばれ、男たちの制服を見るやいなや何かが記憶の中から弾けたのだろう、暴れた。 収拾がつかず、そこで私の義妹が真夜中に電話で起こされ父を引き取りに出かけ帰宅した。 

その後、連絡を受けた子供たちは母親を見舞い、別室で眠る父親の今後の対応について話し合った。 家庭医、母親、子供たちの連携がなければ一人や二人だけでは難しいことになるのは目に見えているし、長引くかも知れぬ。これはくるべきことの予行演習でもあるようで、他人の家族の例とも比べられ、同様のことが義弟の父親にもあったと伝えられた。 その人は晩年耳が遠く、目もかなりあやしく家族のパーティーでは何時間も同じソファーに座って飲み食いするだけの穏やかな爺さんだったのだが聞いたことがなかったもののそういうこともあったらしい。

義父に関しては来週まで様子を見て家庭医と連絡をとりあって、もしまた何かあれば再入院ということになるに違いない。錯乱がたびたび続けばしかるべき処置をすることになるのだが、そうなれば段々我々が見知っている人から離れていく。 情緒のとがった角を削り取るのだ。 そうするとたいらな何もない茫洋としたものがあるだけになる。 帰りに義母が私の肩に顔を乗せて、そんな人にしたくない、と泣いた。

人生の幕引きの時期に今まで抑えていたものが老齢のシステム疲労から湧き上がった心の傷はそんな歳になって癒せるのだろうか。他人事ではない。

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