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大工ヨセフと阿修羅と…

2009年05月19日 09:10

阿修羅展の後半は、興福寺所蔵の巨大仏達。鎌倉時代、慶派のダイナミックな造形。こうした仏像群は観音像であっても威怖的な迫力がある。人々を大きく抱くと言うより押しひしぐような。興福寺と言う宗教施設の巨大さを実感。大体自分は、阿修羅像とか東大寺日光月光菩薩像など個別の像も好きだが。むしろ、奈良公園全体の巨大な宗教域の雰囲気が好き。大仏殿、正倉院興福寺五重塔春日大社、神鹿もいて、山焼きの若草山など。あっ、猿沢池。畔の修学旅行専用旅館。巨大で古い木造。枕投げ、そして消灯後、闇の中、友達とこそこそと語り合う。ドキドキとした思い出。初めて食べた朝食のだし巻き卵。関東出身の自分にはそれまで縁がなかった。それは、修学旅行専用列車の中でのワイガヤの思い出にまで広がっていく…
ガキの自分は、友達とギャーギャー騒ぎながら。せいぜい鹿に餌をやる位しか興味がなくて… ただ、確かにその巨大な神仏の領域の空気は感じとっていた。深く想うことより、友達とふざけ合い、馬鹿騒ぎする幼稚で愚かな無垢。しかし、そのことによってこそ神聖な場所を訪ねる価値があったのかも知れない。その頃には、何も感じなかったがごとき神聖さに対する畏敬。それは、青春の思い出と共に、深く心に刻まれていたことを、今、はっきりと自覚する。
そして、その少年の時代。無意識に"感じ"とっていたその"感性"にこそある種の"神聖"が宿っていたかも知れないと…
阿修羅、そして八部衆全ての少年の面立ち。人間が原罪を超えて持つ原始なる神聖。その現れ。その無垢の様々な歪みの表情にこそ、神聖が宿る。阿修羅成熟しない中性的なの体は、未成熟にこそ宿る神聖の象徴か…
大工ヨセフ。少年キリスト。ロウソクの光に映えるその面立ち、これは余りにも無垢な… 歪みないその表情は唯一神の、その神の子としての証しか…
日帰りの余りにも短い美術展鑑賞の旅。しかし、それは確かな魂の巡礼の旅になった。
阿修羅と少年キリスト。それは、若き修学旅行生の自分には、意外な程身近なものだったのかも知れない。意識もしない程。そして、今はただ憧れ、畏敬するのみ。むしろ今は、十代弟子像の苦渋に満ちた修行の果てのその深く刻まれた皺こそが自らに身近。そして、仄かな灯に黒光りするヨセフの底深い瞳。恐らく原罪を象徴する。戻れない無垢、蘇らない若さ… ただ、果てしない闇はヨセフキリストをもただ包み込む…

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