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第11章:記憶の湯治

2026年02月27日 07:46

第11章:記憶の湯治

銀山から東京へ戻る列車の中で、みおは「日常」という文字が書かれた切符を捨てたくなった。
大丈夫じゃない」という叫びを雪の中に置き去りにして、どの面を下げてあの清潔な匂いのする家へ戻ればいいのか。
体が拒絶していた。直樹の笑顔に触れることが、今の自分にはどんな罰よりも残酷に思えた。

逃避の果てに、彼女の足が向いたのは、かつてゆうと交わした会話の断片にあった、福島の山奥だった。
『いつか、何の関係も、何の肩書きもなくなった時に、あそこの湯に浸かってみたい』
冗談のように、けれど切実な響きを持って彼が語った、湯治客しかいない古びた温泉宿

一方、東京のゆうもまた、握りしめたままの拳のやり場を失っていた。未練、罪悪感自己嫌悪。それらが泥のように混じり合い、一歩も動けなくなる前に、彼は自分を「無」にする場所を求めた。整理などできない。
ただ、自分を構成するすべての要素を、あの熱い湯の中に溶かしてしまいたかった。

ひび割れたタイルの床。薄暗い脱衣所に、硫黄の匂い。
みおが重い足取りで浴室の木扉を開けた時、湯気の向こうに「その背中」があった。

ゆうは、浴槽の縁に腕をかけ、ただぼんやりと天井を見つめていた。そこには「技術部長」の威厳も、理性を守ろうとする仮面もない。ただ、自分と同じように逃げ場を失った一人の男の姿があった。

ゆうが、気配を感じてゆっくりと振り返る。
湯気の中で視線が交差した瞬間、言葉は意味を失った。

お互いが「ここ」にしか来られなかったという事実だけが、静かに、そして重く二人の間に横たわった。

ゆうの喉仏が、ひどくゆっくりと上下した。だが今度は、隠すべき拳はない。お湯に浸かった彼の掌は、力なく、無防備に開かれていた。その無防備さが、かえってみおの動揺を突き動かした。

歓喜よりも先に、刺すような気まずさが走る。
みおは、溢れそうになる感情を凍りつかせ、平坦な声で呟いた。

「……来てたんだ」

ゆうは、水面下に沈めた掌を、今度は逃げるように強く握り込み、短く応えた。

「……きみも」

それだけだった。昨日まであれほど渇望した相手が、今は、自分の「不実」を映し出す最も残酷な鏡としてそこに立っている。
二人の間には、湯気さえも凍りつくような冷たい沈黙が流れた。みおは、ゆうの表情を読み取る前に、逃げるように浴室を後にした。

湿った畳の廊下を、濡れた足音だけがぺたぺたと響く。みおは自分の部屋へ滑り込むと、重い木扉を閉め、そのまま布団の上に崩れ落ちた。

同じ屋根の下、この宿のどこかに、ゆうがいる。
銀山で、あれほど狂おしく求めた「電波の主」が、今は手を伸ばせば届く距離に、生々しい肉体を持って存在している。

(……きみも)

不意に漏らされた彼の声が、耳の奥で熱を持ってリフレインする。冷たく突き放そうとした自分。それに応じるように、親密さを剥ぎ取って答えた彼。それなのに、その二文字には、彼が必死に隠そうとしていた未練が混じっていた。

みおは、まだ湯冷めしていない自分の腕を強く抱きしめた。昨夜、自分の指で放った「大丈夫じゃない」という弾丸は、今、この建物のどこかにいる男の胸を、確かに撃ち抜いているのだ。
一方、ゆうもまた、割り当てられた自室の窓から、暮れなずむ山並みをじっと見つめていた。
自分を無にするために来た場所で、よりによって彼女を「きみ」と呼んでしまった。その瞬間、彼が死守しようとしていた「潔癖」という名の砦は、音を立てて崩れ去った。

(俺は、何をしに来たんだ)

整理など、できるはずもなかった。
昨日、みおから届いた『大丈夫じゃない』という七文字。
それを読んだ瞬間、彼の内側にあった「倫理」という名の重力は消え失せていた。
直樹に対する顔向けできないほどの罪悪感
それ以上に、彼女を「白の中」へ追いやってしまった自分自身への激しい怒り。
そして、今この宿のどこかにいる彼女の気配を、狂おしいほどに求めてしまう未練。

何もかもを握りしめたまま、どこにも辿り着けず、結局二人が出会った頃に共有した「言葉の記憶」に縋って、ここまで来てしまった。
彼女を救いたいのか、それとも共に沈みたいのか。
自問自答を繰り返すほどに、握りしめた拳は震え、手のひらには爪の跡が深く刻まれていく。

(……きみも、俺と同じ場所にいるのか)

廊下を、夕食の準備を告げる古びた放送が流れた。
午後六時。

逃げ場は、もうどこにもない。二人は、それぞれの「地獄」を抱えたまま、重い腰を上げた。

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