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第4章:翻訳不能な情動

2026年02月18日 14:42

第4章:翻訳不能な情動

午後、みおはデスクに向かい、海外小説翻訳作業に没頭していた。画面に並ぶ無機質な英単語を、日本語の血肉へと変えていくルーティン。けれど、ある一節に差し掛かった瞬間、彼女の指先が不自然に止まった。
『――Hisdevotion wassteady and silent.』
画面を見つめたまま、みおの視界がふっと歪む。脳裏をよぎったのは、今朝、夜勤明けの疲れた顔で「みおが好きなムース、買ってきたよ」と微笑んだ直樹の姿だった。
(……devotion……)
それは、今の自分の日常を支えている、穏やかで混じりけのない優しさ。けれど今の彼女には、その清らかさが、自分を「正しい妻」という枠に閉じ込める、安らかな、けれど逃れられない重圧のように感じられた。
彼女は吐き出すように息を吐き、キーボードを叩く。……『彼の献身は』。そこまで打って、続きが打てなくなった。
気を取り直すように、数ページ先へ進める。だが、物語は残酷彼女を追い詰めた。
『――An unquenchabledesire burned within her.』
desire.
その文字が網膜に飛び込んできた瞬間、ゆうの香りが蘇った。
ただ「欲しい」という言葉では足りない。喉が焼けつくような、指先が痺れるような、あの狂おしい飢餓感。今この瞬間にでも、彼の大きな手のひらでやさしく撫で上げられたいと願う、理性を踏みつける欲望
(……仕事にならない……)
それでも、翻訳者としての矜持が彼女を再び画面に向かわせる。しかし、物語の展開は、まるで彼女の心を見透かしているかのようだった。
『――She chose to surrender to the dark night.』
surrender。降伏。
それは、ゆうと形を失っていった、あの朝の記憶そのものだった。「降伏」という言葉に、かつてこれほどまでの快楽が伴っていたことがあっただろうか。自分を律していた全ての規範を捨て去り、ただの剥き出しの命として彼に溶けていった、あの震えるような自失。
みおの指が、キーボードの上で宙に浮いたまま、震えている。
画面の上では、行き先を失ったカーソルが、心臓の鼓動のようにただ一定のリズムで点滅を繰り返していた。
「……わからない」
独り言のように漏れた声は、静まり返ったリビングに力なく吸い込まれていった。
その時、背後で微かな気配がした。
「みお、根詰めすぎだよ。少し休もうか」
いつの間にか目を覚ましていた直樹が、穏やかな声で言った。コーヒーの立ち上る香ばしい匂い。どこまでも家庭的で、温かな「生活」の匂いだ。
直樹は、チョコレートムースを皿に並べ、そっと置いた。
「はい、お疲れさま。糖分を摂らないと、いい言葉も出てこないだろ?」
「……ありがとう, 直樹」
みおは、前に座る直樹を見守った。
二人は静かにムースを口に運ぶ。ひんやりと冷たく、完璧なまでに甘いムース。直樹が自分のために選んでくれた、その献身の象徴のような味。
「美味しいね」
直樹が満足そうに微笑み、みおの顔を覗き込む。その眼差しはどこまでも真っ直ぐで、温かい。けれど、その温もりを感じれば感じるほど、みおの肌に刻まれた「あの痛み」が、服の下でじりじりと主張を始めた。
今、目の前で穏やかに笑っている夫。そして、自分の内側で激しく脈打っている、あの男の残像
​「……みお? どうかした? なんだか、顔色が悪いよ」
直樹が心配そうに手を伸ばし、みおの頬に触れようとした。その瞬間、彼女は自分でも驚くほどの速さで、わずかに身を引いてしまった。
「……あ、ごめん。ちょっと、考え事をしていて」
差し伸べられた直樹の手が、行き場を失って空中で止まる。数秒の、残酷な沈黙。
直樹は一瞬だけ寂しそうな色を瞳に浮かべたが、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻し、何事もなかったかのようにコーヒーを啜った。
「そっか。……あまり無理しないで。僕にとって、みおが元気でいてくれることが一番なんだから」
その言葉が、どんな告白よりも鋭いナイフとなって、みおの胸に突き刺さる。
チョコレートムースの甘みは、今の彼女には、喉を通りにくいほど重く、苦いものに変わっていた。
物語のクライマックスに控える『love(愛)』という言葉を、彼女はまだ、訳せないままでいた。
私は、誰を愛しているのだろう。
画面の中のカーソルが、ただ無機質に点滅を繰り返している。

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