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第10章:解けない拳

2026年02月26日 09:53

第10章:解けない拳

深夜、暗い書斎スマートフォンの青白い光がゆうの顔を照らしていた。
画面には、みおから届いた、短すぎる七文字。

大丈夫じゃない』

その言葉が網膜を通り越して直接脳を焼くような感覚に、ゆうは深く椅子に背を預けた。
テーブルに置かれた右拳を、ゆっくりと開こうとする。だが、指の節々が白くなるほど強く握りしめられたそれは、まるで麻痺したかのように強張ったままだ。

はじまりは、たわいもない会話だった。
翻訳という孤独な作業の中で、同じリズムで言葉を紡ぎ、同じ静寂を共有できる相手。価値観の一致、共通の熱量。そんな清潔なラベルを貼った関係は、気づけば「体」という逃げ場を求めていた。

一度、理性を越えてしまった。
その熱を知ってしまったからこそ、二人の間に流れる空気は、もはや「仕事仲間」という薄い皮膜では覆いきれなくなっていた。

(俺が、追い込んだんだ)

ラウンジで、あと数センチで彼女に触れそうな距離で、自分は「正しくあろう」としてしまった。それが彼女にとってどれほど残酷な拒絶になるかを知りながら。
加害者として彼女を奪いきることもできず、共犯者として泥沼に沈む覚悟も足りず、ただ「被害者」のような顔をして、自分だけが踏みとどまろうとした。

その中途半端な潔癖さが、彼女をあの白の中へ追いやった。

ゆうはスマートフォンを握ったまま、動けずにいた。

指先には、今も消えないみおへの執着が、どろりとした未練となって絡みついている。
同時に、その裏側に張り付いた直樹への罪悪感が、鋭い棘となって彼の内側を刺し続けていた。
そして何より、そんな自分自身の卑怯さと、中途半端倫理観に対する猛烈な怒りが、逃げ場のない熱となって胸に渦巻いている。

何かを伝えなければならない。
だが、どの言葉を選んでも嘘になる気がした。
今さら「済まない」と言えば彼女を見捨てることになり、「今から行く」と言えばすべてを破壊することになる。

結局、彼は何もかもを握りしめたまま、立ちすくんでいた。
未練も、罪悪感も、怒りも、すべてを手のひらの中に閉じ込めて、血が止まるほど強く、ただ握りしめることしかできない。

窓の外、東京の夜空には雪の気配さえない。
だが、ゆうの視界は、彼女が今見ているであろう、あの絶望的な「白」に塗りつぶされていた。

画面の明かりが消え、書斎に真の闇が訪れる。
ゆうは暗闇の中で、解けない拳をただ、じっと見つめ続けていた。

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