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第9章:銀嶺の空白

2026年02月25日 10:56

第9章:銀嶺の空白

逃げるようにして、新幹線に飛び乗った。

行き先なんてどこでもよかった。北へ向かう車窓の景色が、灰色から白へと変わっていく。バスに乗り継ぎ、たどり着いたのは、深い雪に閉ざされた谷の底だった。

バスの扉が開いた瞬間、肺の奥がきゅっと縮むほどの冷気が流れ込んだ。

吐き出した息はたちまち白く濁り、夜の闇へと溶けていく。

みおはマフラーに顔を埋め、小さく肩をすくめると、銀山温泉へと続く坂道をゆっくりと下り始めた。

雪は、世界からあらゆる音を奪い去っていた。

自分の吐息と、雪を踏みしめる乾いた音だけが、耳の奥で異様に大きく響く。

冷たさが皮膚の上から静かに侵入し、芯まで凍てつかせていくはずなのに、なぜか胸の奥の、あの「一ミリ」の熱だけが、どうしても冷えなかった。

一歩、踏み出す。

振り返れば、街灯の下に自分の足跡だけが深く、黒く刻まれている。

消したいのに、消えない。

「何もなかった」という免罪符を抱えて逃げてきたはずなのに、

心に刻まれたあの男の気配は、雪に埋もれるどころか、寒さの中でより鋭利に研ぎ澄まされていく。

坂を下るたび、足元がわずかに滑る

踏みとどまろうとする力が、ほんの少しずつ、弱くなる。

大正浪漫を模した古い街並み、川面に映るガス灯の灯り。

それらすべてが、今の彼女には、現実を隠蔽するための精巧舞台装置にしか見えなかった。

宿に着き、一人で向かった大浴場。

誰もいない露天風呂に、ゆっくりと身体を沈める。

首から上を刺すような冷気と、肌を焼くような熱い湯の境界で、みおは自分の身体を、自分自身の指先で、なぞるように確かめた。

(私は、何を求めているの?)

視界は湯気で真っ白になり、何も見えない。

けれど、目を閉じれば、あの一ミリの距離で止まったゆうの指先の熱が、誰にも触れられていないはずの肌に、鮮明に蘇る。

指先さえ、触れ合わなかった。

それなのに、私の内側はこんなにも彼に侵食されている。

あの時、ゆうが拳を解かなかったのは、彼もまた、自分を壊すことを恐れたからだろうか。

それとも、この「満たされない飢え」こそが、彼が自分に与えた最も残酷な罰なのだろうか。

外は零下。吐く息は白い。

それなのに、湯船の中で自分の腕を抱きしめる指先だけが、狂ったように熱を帯びていた。

雪が音を消せば消すほど、耳の奥では、ゆうの「大丈夫?」という問いかけが、地鳴りのように鳴り響き続けていた。

湯船から上がり、冷え切った脱衣所で鏡の前に立つ。

湯気で曇った鏡を、手のひらで乱暴に拭った。そこに映し出されたのは、直樹が慈しみ、ゆうが指先一ミリまで追い詰めた、一人の女の裸体だ。

肌は赤みを帯び、熱を孕んでいる。

けれど、その内側にある魂は、雪に閉ざされた谷の底で凍えているようだった。

部屋に戻り、浴衣のまま布団に潜り込む。

暖房の唸る音が微かに聞こえるだけで、宿の廊下も、窓の外の温泉街も、深い眠りについたように静まり返っている。

枕元に置いたスマートフォンが、暗闇の中でふわりと光った。

手に取る。画面には、何の通知もない。

ゆうからの連絡も、直樹からの安否を気遣うメッセージも、今は届かない。

指が、無意識メッセージの入力画面を開いていた。

宛先は、ゆう。

『今、銀山にいます』

たったそれだけの言葉。

打っては消し、消しては打つ。

送ってしまえば、この「空白」は埋まるだろうか。

それとも、この静寂を自分から壊すことは、彼が解かなかった「拳」への敗北になるのだろうか。

みおはスマートフォンを伏せ、シーツを強く握りしめた。

窓の外では、また雪が激しくなり始めている。

坂道を下ってきたあの時のように、もう、上へは戻れない。

(壊してほしかった……)

喉の奥まで出かかった本音が、熱い塊となって胸を焦がす。

大丈夫?」という問いに、本当は縋りつきたかった。大丈夫じゃないと、叫びたかった。

何も起きなかった。

だから、終わらなかった。

不意に、スマートフォンバイブレーションが、畳の上で低く震えた。

心臓が跳ねる。

恐る恐る画面を覗き込むと、そこには――

何もなかった。

ただのシステム通知が、無機質な光を放っているだけだった。

期待と、それ以上の恐怖に支配されていた自分の鼓動だけが、耳鳴りのように激しく響く。

みおは、ゆっくりと熱い息を吐いた。

逃げたいのに、逃げ場がない。

壊してほしかった。あの時、あの場所で、強引に奪い去ってほしかった。

でも、世界は壊れない。

雪はただ静かに降り積もり、自分を「正しい妻」の檻に閉じ込めたままだ。

だったら。

彼女の指が、再びメッセージ欄を開く。

宛先――ゆう。

大丈夫じゃない』

たった七文字。

送信ボタンの上で、指が止まる。

家で待つ直樹の穏やかな笑顔。かつて愛おしんだ家の匂い。雪が吸い込む沈黙。

すべてが、彼女を引き留めようとしている。

それでも――。

みおは、震える指でそのボタンを押し込んだ。

送信完了。

その瞬間、胸の奥で何かが、音もなく崩れ去った。

誰にも触れられていない。誰にも奪われていない。

けれど彼女は、自分自身の意志で、二度と戻れない一線を越えたのだ。


窓の外では、雪がすべてを覆い隠していく。
やがて、彼女が歩いたあの坂道足跡も消えてしまうだろう。

それが「不実」であることを、みおは知っていた。

熱を持ったスマートフォンを胸に抱いたまま、

暗闇の中で、震えが止まらなかった。

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