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第5章:日常という名の砂漠

2026年02月20日 03:14

第5章:日常という名の砂漠

あっと云うまに、また同じ生活の軌道を描き始めた。
翻訳の締め切りは容赦なく追いすがってくる。みおは連日、ディスプレイに向かい言葉の奔流と戦っていた。画面を埋めていく日本語は、正確で、流麗で、それでいてどこか空虚が漂うだけだった。一度見失った『love』の訳語は、今も空虚を埋めることのないまま、彼女の心に澱(おり)のように溜まっている。
直樹は、3日勤、1夜勤のいつも通りだった。
決まって、笑顔で「いってきます」と、淡々と自らの職務をこなしては帰ってくる日々を送っている。
彼の淀みのない安定感は、以前なら安らぎだったはずなのに、今のみおにはそれが、自分を「正しい日常」という檻に閉じ込める、無機質な壁のように感じられた。
(……直樹は、何も知らない。私がこんなに壊れていることも、あの朝の熱も……)
そんな自分たちの生活と対照的に、ゆうとの会話は極端に少なくなっていた。
届くメールの内容は冷たい業務内容だけ。そこにはあの香りも、波長が重なり合う瞬間を痺れるような予感も、微塵も含まれていない。
ゆうもまた、彼自身の過酷な仕事という世界へと帰ってしまったのだろうか。
スマホの画面をいくら眺めていても、新しいメッセージマークは付かない。
かつてあれほどまでに届くメッセージが日常のように流れていたのが、まるで遠い昔の出来事、あるいは出来の悪い翻訳小説の一節だったのではないかとさえ思えてくる。あの激しく身体を焼き尽くしたあの熱狂が、遠い過去の妄想のように流れてゆく。
忙しさに追われる日々の中で、ふとした瞬間に訪れる沈黙。
その隙間に滑り込んでくるのは、形容しがたい虚しさと、底冷えのするような寂しさだった。
「……ゆう」
一度だけ、深夜のキッチンでその名を呟いてみた。
けれど、返ってくるのは冷蔵庫の唸るような低い駆動音と、隣の部屋から聞こえる直樹の規則正しい寝息が、いつもより大きく聞こえるだけ。
世界はこんなにも正しく、平穏に回っている。
それなのに、みおの心だけが、たった一人に届かない電波を放ちながら、砂漠の真ん中で迷子になっていた。

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