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第8章:空白の安堵

2026年02月24日 02:08

第8章:空白の安堵

重い玄関のドアを開けると、微かな音とともに、あの匂いが鼻腔を突いた。

洗剤の清潔な香りと、加湿器から漏れる湿った空気。かつて、自分が「守るべき日常」として疑いもなく愛おしんでいたはずの、凪いだ家庭の匂いだ。

リビングへ足を踏み入れると、寝室のドアが静かに開き、夜勤明けの直樹が目をこすりながら姿を現した。

「……お帰り、みお。少し、遅かったね」

直樹の顔には、一点の曇りもない穏やかな笑みが浮かんでいる。彼はただ、妻が仕事から無事に帰ってきたことを喜び、いつものように慈しんでいる。

「……ただいま。ごめんね、仕事が長引いちゃって」

その声は、自分でも驚くほど自然に響いた。
直樹が歩み寄り、みおの肩にそっと手を置く。その手の温もりを感じた瞬間、みおの全身から、強張っていた力がふっと抜けていった。

(ああ……大丈夫だ。私はまだ、こっち側にいる)

何も起きなかった。指先さえ触れなかった。
私は直樹を裏切っていない。誰にも責められる筋合いはない。

その「事実」が、猛毒のような緊張を一時的に解き、みおの身体に偽りの安堵を流し込む。

彼女は誘われるように、直樹の胸に小さく身を預けた。直樹の腕が、彼女を優しく包み込む。

けれど。

その温かな沈黙の中で、みおの胸の奥には、ぽっかりと黒い空洞が空いていた。

「何もなかった」という事実は、救済ではなく、ある種の虚無として彼女侵食し始める。

奪われたかった。

理性を、規律を、自分という存在を、あの「一ミリ」の向こう側へと強引に引き摺り込んでほしかった。

テーブルの下で最後まで解かれることのなかった、あのゆうの拳。その硬い拒絶にも似た抑制が、かえってみおの心を激しく掻き乱す。

その夜、ベッドに入っても、眠りは一向に訪れなかった。

隣でリズムを刻む直樹の穏やかな寝息を聞きながら、みおは暗闇を見つめ続ける。

目を閉じれば、あの一ミリの距離で止まったゆうの指先、激しく上下した喉仏、そしてついに解かれなかった拳が、幻影となって脳裏に焼き付いている。

触れられなかったからこそ、その「不在」の熱が、触れられた時よりも鮮明に、執拗にみおの肌を炙る。

大丈夫……?)

ゆうの声が、耳元で何度も反芻される。

直樹に抱きしめられ、守られているこの「正解」の場所が、今は底なしの砂漠のように感じられた。

罪はない。証拠もない。

それなのに、何かが決定的に壊れてしまった。
みおは、直樹の腕の中から逃げ出すこともできず、ただ自分の輪郭が霧散していくような不安定な空白の中で、独り、さまよい続けていた。

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