- 名前
- 清英
- 性別
- ♂
- 年齢
- 63歳
- 住所
- 東京
- 自己紹介
- 都内江東区有明のマンションに一人寂しく暮らして居ます。長年連れ添った愛妻は4年前他界...
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東洲斎写楽
2024年10月18日 04:40
本日の清英の書作品は
東洲斎写楽
参加している書道グループの
今日のテーマです。
東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく、とうじゅうさい しゃらく[3][4]、生没年不詳)は、江戸時代後期の浮世絵師。
詳細記事のサイトより一部転載
️
https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-artist/tosyusai-sharaku/
東洲斎写楽」浮世絵界の彗星的絵師
東洲斎写楽は「4大浮世絵師」の1人に数えられ、誰もが知る有名な浮世絵師。作品としては役者絵、とりわけ役者の顔をアップで描いた「大首絵」で知られます。
しかし「謎の浮世絵師」という異名でも呼ばれ、その本名や生没年、出生地、家族、師匠や弟子などすべてが謎であると言われてきました。事実、活躍期間は非常に短く、わずか1年未満(10ヵ月)の間に約150点の作品を描き、そして突然に姿を消してしまっています。
その短い活動期間にもかかわらず、その鮮烈な個性は衝撃を持って受け入れられました。評判は江戸にとどまらず、明治以降には海外でも大きな反響を呼びます。特によく知られるのが、ヨーロッパで東洲斎写楽を初めて本格的に研究したドイツの美術研究家ユリウス・クルトです。
ユリウス・クルトはその著作「Sharaku」において東洲斎写楽を絶賛しました。その高い評価から、いつしか人々はユリウス・クルトが東洲斎写楽を「レンブラント」、「ベラスケス」と並ぶ「世界三大肖像画家」と称したと口々に言うようになりました。
しかし、実際にはそのような記述は見当たらないため、世界三大肖像画家との評は人々が作り出したものということになります。それでも、東洲斎写楽が世界中で最も知られる肖像画家の1人であることには疑いを挟む余地がありません。
一方の「謎の絵師」という評も後年に登場したものです。そう言われるようになったのは明治末から大正時代以降のことでした。と言うのも、彼はほんの一瞬江戸を騒がせた天才浮世絵師ではありましたが、そのあと急速に人気は下火になり、消え去ったあとはほとんど顧みられることもなかったからです。
したがって、明治末に再発見されるまでの間、東洲斎写楽はむしろ「忘れられた絵師」でした。謎は、興味を持つ人があってこそ生じますが、東洲斎写楽は他の凡百の浮世絵師と同様に忘れ去られていたため、その生涯を詳しく調べたり発表したりする人も少なかったのです。
東洲斎写楽の浮世絵が明治期までは別段高く評価されなかったことは、当時の人々の手記からも読み取ることができます。例えば文人で画家でもあった「淡島寒月」(あわしまかんげつ)は、「古版画趣味の昔話」という文章の中で東洲斎写楽に言及。それによると、明治の始め、東洲斎写楽の浮世絵版画は浅草などの道端の露店に山積みになって売られていたのです。
他の浮世絵師の版画と一緒に雑然と積み重ねられ、「よりどり1銭」の廉価で売られていたと言います。明治初期の1銭は「かけそば」を1杯食べてお釣りがくる程度であり、現代ではせいぜい数百円の金額です。
ただし、東洲斎写楽の浮世絵が特に低く見られていたというわけではありません。明治期、浮世絵は美術品ではなくポスターのような大衆の消費物として扱われていました。また、淡島寒月による補足によると、幕末から明治にかけては「歌川国芳」(うたがくによし)や「月岡芳年」(つきおかよしとし)らの新しい浮世絵師が大衆に好まれており、東洲斎写楽は「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)らとともに「古い浮世絵師」と認識されていたとも言います。
ところが、その明治維新から半世紀を経た1918年(大正7年)ごろ、東洲斎写楽の浮世絵は1枚が数百円にまで高騰。その頃の公務員の初任給が70円程度ですから、東洲斎写楽の錦絵はもはや庶民が気軽に買える物ではなくなってしまったのです。
さらにその値段は高騰を続け、数千円、さらには10,000円と桁が吊り上がる大高騰を見せました。そしてこの価格高騰を牽引したものこそ、海外での人気だったのです。東洲斎写楽の版画は突然ヨーロッパで非常に高い評価を受け始め、現在までも続く人気が始まりました。
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