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父との思い出(その2)

2025年11月29日 01:32

父との思い出(その2)

1945年日本敗戦の年に、父は生まれ育った旧満州中国北東部)から福岡に引き揚げてきた。父は当時22才

戦争で日本は焼け野原 
一からの復興
その当時の日本人は、どの様な気持ちで日々を生きていたのだろうか


まず、父は三池炭鉱で働き、やがて、知り合いのツテで福岡市水道局に入った

社交的で面倒見が良かった父は、労働組合の役員になった

戦後復興の中で、日本の労働運動は大きく高揚し、働く者は労働組合に加盟し、自分たちの賃金労働条件の向上を勝ち取っていった
それは飯を食うために必要不可欠なことだった



当時の父の労働組合役員の姿は、幼かった私の記憶の中にはなく、白黒写真で見て知るものである

メーデー参加の様子、ハチマキをして仲間たちと笑っている姿

その中に当時2才位の私の姿が写っていた
私もハチマキをして、父に肩車されていた



私が中学生の頃には、父は組合役員を降りていた
その時、父から聞いた話

父が属していた労働組合は、公務員労働組合だったのでスト権は認められていなかった
しかし、当時は公務員労働組合のスト権を求めるストが行われていた
(◯スト権とは、ストライキ権のこと。ストライ
  キとは労働法で認められた仕事を放棄する争
  議行為)

父は、そのスト権ストで、西鉄バス3台を貸切り、組合員100名を乗せ、虹の松原に連れて行き、仕事をボイコットしたらしい

そのことで処分をくらい、昇給を減らされ、年金も含めると生涯収入を大きく損したことを父は悔やんでいた
また、一時期、不穏分子として、公安尾行されてたこともあったらしい



だが、当時のことを語る父の口調は、やけに明るく楽しそうに聞こえた


「やけん、お前は絶対に組合活動なんかするなよ」と父に何回か言われたことがあった

しかし、私は父に言われたことを守らず、組合活動にのめり込んでしまった


私が30才半ばになった頃

「やっぱり俺はあんたの子やわ 血は争えんね」と言うと

「自分の人生やけん 好きにしたらよかたい」と父は笑っていた

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