- 名前
- 純
- 性別
- ♂
- 年齢
- 63歳
- 住所
- 埼玉
- 自己紹介
- 9月も10日が過ぎました 先々月は大使や年収2億を超える方に会えました 婚活できる方...
JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。
広島の日です。スペインの世界遺産、
2010年08月06日 05:45
今日は66回目の広島の日です。裏に色々書きましたが表でもこの本の題名をご存知ですか。
広島再訪 一九六四年夏
飛行機が広島の市街の真上で旋回し、郊外の空港にむかう瞬間、広島の七つの川は、水の色をうしなって、みがかれたメダルのように激しく輝く。円窓から、市街を見おろしていた旅行者たちみなが、照りかえす夏のさかりの真昼の陽の光に眼もくらむ思いで、おずおずと頭をひく。僕は一年前、広島からとびたった飛行機の窓から、おなじように輝きたてる七つの川に眼をくらまされたことを思い出す。僕の内部で、一年間の時間の感覚が希薄に、不確かになる。飛行機で広島をとびたち、再び広島へ着陸しようとしている、この二つの旅行が、単なる遊覧飛行のひとめぐりにすぎなかったとでもいうように。空から見た広島は、まったく変っていない。飛行場から市街に入ってゆくタクシーからの眺めもまた、ほとんど変っていない。一年前、飛行場に僕をおくってくれた運転手とおなじく、いま僕を市街のなかへ運んでゆく運転手もまた、昨夜の広島カープスの試合の噂に夢中だ。
しかし、この一年間に、原爆病院で四七人の患者が死亡したのである。死亡した患者たちの統計を見れば、八二歳の老婦人の肝臓癌による死亡をはじめ、いまや死者たちの年齢は六十四歳、六七歳、五五歳というような老年のそれであり、かれらのほとんどの死因が癌だ。僕は原爆病院のひとつの病室にベッドを並べていた三人の老人たちのことを思いだす。
こんな本で語りある方がいらっしゃれば嬉しいと思います。
スペインといえばピカソのゲルニカが反戦の作品です。貼れないのでメモだけ紹介致します。
『ゲルニカ』(Guernika)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中に空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られたタピストリー作品である。
背景
スペイン内戦の最中の1937年4月26日、スペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスによって空爆を受けた。史上初めての都市無差別空爆と言われることがある[1]。滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていた同年のパリ万国博覧会スペイン館の壁画として急遽ゲルニカを主題にこの作品に取り組み、6月4日には完成させる。
スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵はロンドンなどを巡回したのちにヨーロッパの戦火を避け、1939年、米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられる。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めるが、「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」とピカソは拒否した。
ピカソは1973年にこの世を去る。フランコ将軍も1975年に没し、政体の代わったスペインとニューヨーク近代美術館との間にこの絵の返還交渉が再び始まった。1981年になってようやくスペインに返還され、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。
ピカソは大戦後これと同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、そのひとつはニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前に展示されている。
『ゲルニカ』は、その誕生からその遍路の間も反戦のシンボルであり続けてきた[2][3][4][5]。ただ、ピカソが後に共産党員になったことや人民戦線との繋がりから、ピカソの義憤の象徴と解釈するのには異論もある。
以上です。今日はいつもと内容を変えてみました。お読み頂きまして誠に有難うございました。
このデジログへのコメント
> さよこさん
どうにか貼る事が出来ました。だったら反戦とかそういう意識で見られるのかなあそれともピカソの絵だねと言われるのかなあ。反応に関心あります。こういうテーマで話せるのって心地いいです。
コメントを書く