- 名前
- nomiya8
- 性別
- ♂
- 年齢
- 80歳
- 住所
- 埼玉
- 自己紹介
- 私の酒は食前酒で飲むと陽気になり歌ったり踊ったり。信条は去る者は追わず来る者は拒まず...
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音楽と思い出
2007年07月20日 10:25
音楽と言うのは何年経っても廃らず、今でも時折聞かれるものもあるが、多くはその時代その時代によって移り変わってしまうものが多い。
今は殆ど耳にしない音楽だから、ある日偶然耳にすると、その頃の事が懐かしく思い出されてしまう。
世代によりその音楽も様々だし、同じ音楽でもその時のその人の状況によって、楽しい思い出だったり、辛い悲しい思い出だったりする。
私の場合この様なサイトでは最年配の部類に入るだろうから、それだけ多くの場面が思い出になるが、そんな曲知らないよと言われる方も多いかと。
数ある中でも直ぐにその時の情景が脳裏に蘇ってくる2曲について
1つは、1968年(未だこの世に生を受けていない方も多いと思います)私が23歳でアメリカへ赴任しました。
未だ言葉も良く解らず、話せなかったが何時もラジオから流れている曲の一つ゛恋は水色”ラジオでは曲名を言っていたのだろうけど、
私には日時様会話も覚束ないし、ましてやラジオからの英語など解るはずもないから、曲名も知らず、ただ素敵な曲だなと思いハミングしていたのを思い出します。
日本を発つ前に今の家内と婚約し、必ず向こうへ呼ぶからと約束をして涙で見送られ渡米した。
当時国際電話は、始めの3分間で2700円と所得に対して大変高く、とても頻繁には利用できない。
それでもたまには肉声が聞きたく、月に一度位しかする事は出来なかった。
必然と連絡手段は手紙になってしまう。
エアーメールなのに届くまで約一週間。
そのメールに対する返事を待つのももどかしく、次に第二、そして第三のメールの発信。
ですから2,3日毎にメールを書き、時には涙ながらのメールもあり、時には耐えられず諦めたいとのメールもきた。
日本語のラジオ放送だとアナウンスが耳障りで手紙に集中出来ないが、未だ英語が解らない私はラジオを聴きながら書いていた。
その時々に流れていたのが”恋は水色”
無論曲名は帰国してから知りましたが。
私が渡米したのが3月、家内が入籍後私の元に来たのが、同じ年の9月。
今でもそのまま箱に入れてしまってあるが、その6ヶ月間の手紙は夫々100通近くで薄い便箋用紙で15センチ程の厚さであった。
長い年月は全てを変えていく。
その頃の互いの思いやりがあれば、私もここを徘徊してなかった様にも思える。
そんな思い出。
このデジログへのコメント
素敵な思い出、愛がいつまでも続いているようです。私も 太陽は燃えている や、リリースミー好きです。
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