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成程話:見えぬけれどもあるんだよ

2017年01月24日 23:58

目に見えるものと、目に見えないもののお話です。


「無い」ということはどういうことか。
たとえば私たちの体は、ここに「有る」。
姿形や動作はわかるけれども、「さあ、命を目の前に取り出して見せてくれ」と言われたら、どうしようもない。
命だけを取り出すことは決してできません。
体のどこを切っても、髪の毛一本、爪一枚にいたるまで、すべてに命が「有る」。
ただ、その命自体は見えないのです。
また、もし「平和を見せてくれ」と言われたら、どうするでしょうか。
ニコニコ笑うのか、手をつなぐのか。
でも、笑うことがイコール平和でしょうか。
命と同じように平和が大切だとみな知っていますが、平和がどういうものかは見えていないのです。
逆に、争いであれば、人と人が殴り合ったり、罵倒し合ったり、傷つけ合ったりすることで表せるでしょう。
だから、歴史は目に見える争いの歴史しか学べない。
平和とは、争いのない状態です。
争いという目に見えるものがないのが平和
ということは、争いがあるから平和かどういう状態なのかが感じられるのでしょう。
目に見えなくても平和があるのです。
大切なものはいつだって目に見えません。
差別と平等、体と命、争いと平和のように互いに交わり合いながら存在しているのです。
目の前に「有る」ものだけにとらわれず、見えていない「無い」ものがあるはずだと思うこと、そこに、思いを馳せることが私たちには必要なのではないでしょうか。

男の禅語
平井正修著
三笠書房


金子みすゞ”さんの詩をご紹介させていただきます。

青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきにだァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬけれどもあるんだよ。


小林正観さんは、
【何も起きず、普通に、淡々と過ぎる日常こそ、幸せの本質である】といいました。
日常に深く感謝できるのは、非日常に遭遇したときだったりします。
病気や、災害や、大きい出費、怖い人との出会い、身近な人の死などです。
そして、それらは目に見えますが、健康や災害がない日々や、大きな出費がない日々、怖くない人との出会い、生きていること、これらは当たり前に感じてしまい、見えにくくなっているものです。
誰かを想う気持ちも、一人で黙々とする努力も、寄り添ってくれる人も。
目に見えるものだけを信じるのか、目に見えないものこそ信じるのか。
そもそも、信じる前提でいるのか、疑う前提でいるのかともいえます。
大切なものは、目に見えない。
大切なものは、そこにある。
信じる前提で生きていきたいですね♪

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