- 名前
- ぱすかる
- 性別
- ♂
- 年齢
- 73歳
- 住所
- 福島
- 自己紹介
- 中身は40代。 気が弱く臆病だが、ココロは獰猛。
JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。
死刑
2011年12月22日 16:14
死刑は極刑だが、極刑はたいがい人を殺した殺人犯、あるいは殺人鬼がに適用されることが多い。
ならば、殺人犯を殺す正当な理由があるのか。殺人犯とて人間であることに変わりない。生きている人間を公衆の面前で殺す。無抵抗で丸腰の人間を殺す。
戦争では無抵抗で丸腰の人間を殺すことは堅く禁止されている。兵士であってもだ。
かつて人を殺したであろう人間が、裁判で死刑の判決を受けた。罰は死である。
罰は人間集団が決める、つまり、法で決める。社会ルールというやつだ。古代から続いている。そして国家が執行する。斬首切腹磔刑獄門晒し首。殺人強盗放火。
殺人犯を殺さなければ身内や関係者が承知しない。承知しなければ私的制裁、リンチに走る、うんで溜飲を下げる。メデタシメデタシ。
これは今までのイデオロギーだ。殺した人は殺されて当たり前、そういう考え方だ。誰も異を唱えるものはいない。
問題は無抵抗な人間を公衆の前で殺す、ということだ。
秋葉原では公衆の前で無抵抗な人間を殺した。しかし、被害に遭った人々は少なくとも逃げる自由があった、逃げても運悪く殺された。
死刑囚は無抵抗であって逃げる自由はない。
虐殺とどう違うのか?違いは罪のありなしの一点だろう。極悪非道の罪人だから殺されて当然。
虐殺に遭った人々は正当な罪はない、しかし、殺された。
ナチスがユダヤ人を虐殺したのはユダヤ人という人種に罪を認めたからだ。ユダヤ人という理由で罪になった。
同じことは、朝鮮人にも中国人にも日本人はやった。戦争中、大量の虐殺を朝鮮で中国で日本兵はやった。
すると、罪とは差別ではないのか。差別の上下階梯が、一番高いところに死があることになりはしないか。
もっと言えば、罪を受けた人間は程度の差はあれ、人間であることを否定される。人間でなければ動植物と同じだから、殺されても仕方がない、殺されて食われても仕方がない。
こういうハナシなら、人殺しは人間でなくなる、非人になる。非人なら殺されてもおかしくない。
人間の道を踏み外すと非人になる。殺されて当然になる。
交通事故はどうなんだ。事故で人を殺した、殺した運転手には悪意はない。しかし、事故で死んだことに変わりない、彼は殺人者か?死刑の罰を受けなければならないか。
今は、差別は認められていない。ならば、罪で人を殺すことは無理だ。つまり、殺人者であっても非人でなく人間だからだ。
事故を起こした運転手だって人間に変わりない。
じゃあ、人間が人間を正当に殺す理由はどこにあるのだ。
ない、殺すことは無理だ。
人間を罪では殺せないのだ。差別を前提としなければ、人間でないという前提でなければ、罪人は非人、動物と同じだという理由でなければ、殺せない。
しかし、近代国家では差別は否定されている。人間はどこまでも人間でイヌやネコサルでない。殺される家畜でない。
残念ながら、事故で最愛の子を失った母親や父親は、罪や罰を与えることができても、殺すことはできないのだ。彼は家畜でないのだから。
残念ながら、オウム教のサリンで命を落としたヒトの家族は麻原教祖を殺せないのだ、彼は家畜でないのだから。
仇討ち復習、やるヒトは人間を辞めて極道になると言うことだ。殺人者は人間に戻れない。殺し合いの極道になる。
もし、ヤクザが鬼畜の極道というなら、殺されてしかるべきだ。
しかし、あなたが認めても、裁判官はヤクザだと言うだけで家畜とは認めないだろう。
殺された人は浮かばれない、そう、確かに浮かばれない。
しかし、人間が人間を殺すともっと浮かばれない。運が悪かった。
しかし、あなたが家畜になればハナシは別だ。
極道の妻にな。
このデジログへのコメント
コメントを書く