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財閥解体
2016年04月30日 09:12
おはよう(^∇^)
三菱の不正問題
財閥だから平気
って意見がある
確かに、00年、02年のリコールの際には三菱グループ企業からの支援により未曾有の危機を脱している。
ただ、これはグループ企業であって財閥ではない。“財閥系”である。
そもそも今の日本に財閥はない、筈である。でなければ、財閥解体は何だったんだって話。
《財閥解体》は、戦後のGHQによる世紀の悪法。それは剰りにも杜撰。地方豪族含む数百の財閥を指定。が、メスを入れたり入れなかったり。唯一、完全に解体されたのは三井だけだった。
三菱財閥の歴史なら、今回に因み誰かが解説するかな? じゃ、私は三井を紐解くことにしよう。
《財閥解体》で三井に課せられたのは、主に次の二つ。
一、全ての金融資産の没収。
一、社会的生産活動の永久的禁止。
故に三井に、三井は一人も居ない。
これは、三大財閥と云われる三菱・三井・住友の内、現代でもいまだにグループ企業に創業家がいる三菱と住友とは大きく異なる点。
GHQは三井に対して、本気だった。敗戦時にして尚、戦勝国アメリカから日本を買い取れるだけの財力が!アメリカにとって、三井はどうしても潰さなければならない家だった。
創業家は、グループ各企業に名前を貸している関係性。三井家の番頭たちが作る連絡会を挟み、直接の接触は禁じられている。
例えば、三井銀行創業家小石川家の当主が死亡した場合、連絡会が三井住友銀行に通達し、葬儀場に三井住友銀行からの花輪が届く、といった感じ。
小石川家は、三井銀行初代社長を輩出した、三井小石川家のこと。
三井は、全部で11家。
総本家と四つの本家と六つの連家から成る。
各家から、当主と大番頭の二人が出席する総勢22名の最高会議が、所謂「三井財閥」の意志決定機関。経営のエキスパートである彼等22人は、さながら、家の中に経団連がある感じだろうか。
では、当主はどのようにして誕生するのか、江戸時代の越後屋だとこんな感じだ。
まず、長男は遅くとも数え年で5つ(満3、4才)までには母親から引き離され、丁稚奉公に出される。
江戸の三井は、関西の越後屋へ。
関西の三井は、江戸の越後屋ヘ。
雑役がこなせるようになるまでに数年はかかる(個人差アリ)。雑役がこなせるようになると――
関西の越後屋に居たなら江戸ヘ。
江戸の越後屋に居たなら関西ヘ。
こうして下働きから始めて、仕事を覚えるごとに転勤を繰り返し、一通り店の仕事を覚える頃には、早い人で20代後半、遅ければ30代になっている。
そして、ようやく帳場に入ることが許され、ここから番頭に算盤を叩き込まれる、帝王学の始まりだ。つまり、ここまでは、家に帰ることさえ許されてはいない。
遠祖高利の『家憲』(初代の遺言)で、三井家では学問と宗教を禁じていた。実践の中で商いのスキル向上が全て。
勿論、300年の越後屋の歴史の中で何人かは脱落している。その場合、他の家から養子を取り修行させ、長男は若隠居となる。
「組織の三菱」
「人の三井」
「結束の住友」
と云われるが、屋台骨が製造業の三菱や住友と違い、金融と商業で栄えた三井は個人の裁量が重要。完全な実力主義だった。
これは、明治以降の近代でも同じ。戦前の三井合名の初代の理事長は團琢磨。つまり、大番頭だ。
彼は暗殺されるほど優れた経営者であり、優秀な人材を躊躇なく登用する三井の家風は、今のグループにもその名残がある。
対して、「組織」を重んじる三菱は、前回は、東京三菱銀行(当時)、三菱商事、三菱重工業が、三菱自動車の増資を引き受けた。
果たして、今回は?
このデジログへのコメント
> くっきぃさん
財閥は昔から続く富豪の一族?
最も巨大化し 故に解体された
三井を例に財閥を考えました.
三菱自動車は大変革は必須!
消滅もある?
失った信用より賠償額でか過ぎ
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