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興味深い書籍:お金の流れで読む 日本の歴史

2016年03月22日 23:50

今日の紹介は、大村大次郎氏の著書です


■お金の流れで読む日本の歴史
大村大次郎(著)


歴史は経済によって変わる。
いの原因は経済がほとんどである。
よって経済の流れを読み解いていけば、歴史は分かるのです。
国税調査官であり、歴史のライターであった大村氏の非常に読みやすい本です。
歴史の流れをつかむことができます。
歴史をもう1度勉強したいという方には特におススメです。
それでは特に参考になった話を紹介していきます。


織田信長は、「兵農分離」や「鉄砲の大量使用」で敵国を蹂躙してきたのだが、どちらにも、多額の費用がかかる。
「兵農分離」して農閑期だけ動く農民兵ではなく、一年中動ける常備兵を用いたほうが軍は強くできるが、常備兵を持つには、それを雇用するだけの経費がかかる。
また、鉄砲という新兵器を大量に持っているほうが、戦争に強いのは当然である。
しかし、鉄砲を大量に用意するには、まずなによりお金がいるのである。
他の武将にはそれができず、信長にはできた、ということは、信長はそれだけ経済力を持っていたということである。
つまり信長軍事力というより、経済力で敵を圧倒してきたのである。
信長が相当の経済力をつけていたのはなぜか?
それは、織田家が重要な港を押さえていたからである。
信長は勝幡城で生まれているが、その城は尾張の湯治の物流拠点だった津島という港のすぐそばにあった。
津島は、尾張伊勢を結ぶ地点にあり、ちょうど西日本東日本の中間に位置していた。
後に、信長土地よりも港を重視した。
港を押さえれば莫大な収益が上がることを、信長は生まれながらにして学んでいたのである。
信長将軍を擁して上洛して京都を押さえたとき、足利将軍からの畿内6ヵ国の菅領への推挙を蹴り、その代わりに「堺」「大津」「草津」を所望した。
信長は六国の領地よりも港を欲したのである。
堺は当時、日本で最大の国際港である。
また、大津琵琶湖の最南にあり、琵琶湖水上ルート京都側の玄関口にあたる。
当時、京都から東北に行く場合、琵琶湖を船で上るのが一般的であったので、大津は人や物がもっとも多く集まる港だった。
それだけではない。
港を押さえることが重要なのは、当時の港では、関税を課すのが普通だったからだ。
大きな港には多くの船が出入りするので、その関税収入だけで莫大なものになるのだ。
対して、信長の最大のライバルとされた武田信玄だが、信玄信長に勝てなかった。
武田信玄というと、甲斐の守護大名から、信濃三河上野を平らげ、最盛期には100万石近い版図を持っていた戦国時代を代表する大名である。
晩年信長に対決を挑んだ「西上作戦」では、信長をあと一歩まで追い詰めながら、死によってそれを果たせなかったとされ、「もし信玄が長命であったならば、信長に代わって天下を獲っていたのではないか」という説も根強い。
しかし織田信長武田信玄のあいあだには、経済力ではかなりの開きがあった。
信玄の出発点である甲斐武田領には、経済的に大きな不安要素があった。
武田領が「陸の孤島」だったということである。
信玄の領地は山間部であり、海に面していないので、交易商業はあまり栄えていなかった。
そして他国から生活に必要な物資を輸入するとき、船舶などで直接、搬入できず、必ず陸路を通らなければならない。
だから、周辺の大名と敵対すれば、物資の流通をストップされてしまうのである。
いつの時代でも戦争において、経済封鎖というのは常識的な作戦なのだ。
甲斐地方は山国であり、様々な物資を隣国などからの「輸入」に頼っていた。
軍事物資だけでなく、人が生きていくために最低限必要な生活物資さえ、輸入に頼らざるを得なかったのだ。
その最たるものが塩である。
海のない甲斐地溝は、「塩」は陸上輸送で調達するしかない。
ライバル大名から、その弱みに付け込まれたのである。
また、信長は経済封鎖によって、武田方に「鉄砲」も使わせなかったのである。
これは有利になりますね。

明治維新後、諸藩は廃藩置県により、これまでの藩領をすべて返還しているが、廃藩置県スムーズに行われたのは、藩財政の悪化も大きな理由だといえる。
大名家は藩領を手放すことで、財政問題からも解放されたからだ。
なお、廃藩置県が行われた理由は外国からの侵略を防ぐためであった。
国全体が一致団結して、強力な軍備を整えなけれなならなかったのである。
その際に「藩」というのは邪魔な存在だったのである。
藩を越えて、国家という枠組みでことを起こさなければ、到底、問題解決には至らない。
そのため維新政府は、最初の大事業として「藩を壊す」ということを行ったのである。
しかし、藩というのは江戸時代260年も続いてきた社会のシステムであり、壊すといってもそう簡単にはいかない。
そのため維新政府の高官たちは、まず自分たちの母体の藩である薩長土肥を消滅させることから始めた。
自分たちの藩を最初に壊すことで範を見せようとしたのだ。
これがなければ、日本は他のアジア諸国のように植民地にされ、今の日本は2つや3つに分かれていたかもしれませんね。
この維新政府英断が、今の日本の礎を形づくっているのです。

●なぜ国民が、満州事変国際連盟脱退を支持したのか?
そこには、当時の日本が抱えていた重大な経済問題が背景にあるのだ。
戦前の日本は、現代以上の格差社会だった。
それは、「戦争を歓迎する」という日本国民の考えの土壌になったのである。
日本は明治維新後、急激に工業化をすすめたが、国全体を見れば、「貧しい農村社会」だった。
もともと江戸時代人口の9割近くが農業をしていたくらいなので、おいそれと改善できるのものではない。
昭和5年の調査では、第1次産業47%、第2次産業20%、第3次産業30%であり、就業人口2900万人のうち1370万人が農業に従事していた。
職業人口としては農業はダントツナンバーワンだった。
そして農村においては、その貧しい生活のはけ口として、軍部が人気を集めるようになっていた。
軍部大陸で勢力を伸ばすことが、農村を辛い生活から救ってくれる」というような錯覚を大勢が抱いたわけである。

このデジログへのコメント

  • kouji 2016年03月23日 00:18

    歴史の節目には戦争があり、戦争は経済的利害がつきもの
    思えば、中国の海洋進出も資源を求めたもので、その背景には国内の経済格差があります
    経済が戦争を起こしたり平和をつくったりして歴史はつくられますね。

  • なな♪ 2016年04月11日 00:35

    koujiさん:そうですね。戦争とかなくなればいいのに

  • なな♪ 2016年04月11日 00:37

    kazu2さん:こんばんは。コメントありがとうございます(^^)
    経済おさえられてる人どのくらいいるかな

  • なな♪ 2016年04月11日 00:43

    一期一会!さん:漢字にも詳しいんですね(^^)

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