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小林さんご冥福お祈りします
2010年01月18日 12:43
江川さん「一生申し訳ない」…小林さんへ消えない気持ち
スポーツ報知 - 2010/1/18 8:00
小林繁さんの悲報を受け、元巨人投手で野球解説者の江川卓氏(54)が17日夜、東京・東新橋の日テレで会見した。同氏は1979年の「世紀のトレード」で巨人に入団し、小林さんは交換要員として巨人から阪神に移籍。2007年にはテレビCMをきっかけに29年目の“和解”を果たしたが、「小林さんが亡くなったからといって『申し訳ない』という気持ちは一生なくならないと思います」と涙目で話した。
小林さんの悲報に接し、江川氏は目を潤ませながら言葉をつないだ。「2年半前にお会いしたときはすごく元気だったので、びっくりしています。(今季は)1軍でコーチをされると聞いて、球場でお会いできると思っていました。残念です」。沈痛な面持ちのまま約20分、小林さんの早すぎる死を悼み、思いを語った。
78年の「江川問題」に端を発し、翌79年、小林さんは江川氏の交換要員として巨人から阪神に移籍した。小林さんは阪神移籍1年目、22勝で最多勝を獲得。「“小林さんを超えなければいけない”と思っていましたが、結局抜けなかった。気持ちが強かった」と振り返った。
2人の初対決は80年8月16日(後楽園)。江川氏が3失点完投勝ちを収めた。「あの時は前の日から“負けるわけにはいかない”と思っていました。勝つことで小林さんに恩返しができたと思っています」と思い出を語った。
ただ、「世紀のトレード」から20年以上、互いに言葉を交わすことはなかった。2人の関係に変化が生まれたのは07年。清酒メーカー「黄桜」のCMで共演し、江川氏が謝罪した。リハーサルなしの“再会”。「『お互い大変だったな』と言われ、ホッとしたことを覚えています。救われました」。29年目の“和解”だった。対談後には小林さんの控室で「元気でやれよ」と声をかけられた。それが2人にとって最後の会話だった。
「『申し訳ない』という気持ちは、僕の中では終わっていません。原因はこちらにある。小林さんが亡くなったからといって、『申し訳ない』という気持ちは一生なくならないと思います」。江川氏は両目に涙をため、永遠の別れを惜しんだ。
◆江川と巨人の“空白の一日”がきっかけ
江川は法大4年時の1977年ドラフトで、クラウン(現西武)の1位指名を拒否して米国に留学。翌78年11月22日のドラフト会議を前に、巨人が当時の野球協約の文面から江川をドラフト対象外と判断し、“空白の一日”となった会議前日の21日に契約を結んだ。しかし、他球団は反発し、鈴木龍二セ・リーグ会長(当時)は巨人の契約承認申請を却下した。
巨人はリーグ脱退まで示唆し、ドラフト会議をボイコット。機構側への提訴で対抗した。巨人抜きの11球団で行われたドラフトで、4球団が江川を1位指名し、阪神が交渉権を獲得。巨人側は江川との契約の正当性を主張し、阪神側は江川との交渉を進展できずにいたため、金子鋭コミッショナー(当時)が2球団の間で超法規的なトレードを行うべきとする「強い要望」を出した。79年2月1日の午前0時すぎ、江川と小林繁の交換トレードが成立した。
◆2人の初対決(1980年8月16日、後楽園 巨人5-3阪神) 小雨が降り、「江川コール」や「小林コール」でスタンドが揺れる中、試合が始まった。江川は1点リードの5回、掛布に同点二塁打。しかし、小林はその裏、自らの2失策などで無死一、三塁とされると、江川に中前へ勝ち越し打を浴びた。さらに篠塚にも2点打を打たれ、5回6安打4失点だった。176球で完投した江川は10安打3失点と自己最多の10勝目をマークした。
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