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桂米朝落語全集; 百年目 (DVD)

2006年04月23日 05:19

桂米朝落語全集DVD) ; 第七集 百年目 / 焼き塩 

東芝EMI  GSB 1507


百年目    42分    1989年 10月17日 大阪

昨日一日だけコートも要らなくなったかと思えば、また今日は肌寒い日に戻り、それを取り返そうとするかのように、このところ桜を題材にした映画、話などを見たり聞いたりしていたのだが、この噺で昔の大阪花見の様子を味わった。

それを言うなら、長屋の花見、などが典型的な噺なのだろうが、ここでは粋な商家旦那が隠れて遊ぶ番頭の遊びをどのように扱うか、また、その番頭の中間管理職としての日常の建前と裏での茶屋遊びの屈託が旦那の思惑はそれとして、番頭の苦悩が上手に扱われている噺である。

このような商家の習慣、様子は私の子供の頃、昭和30年代には消えていたに違いなく、子供の頃その興隆期を迎えていたテレビのシリーズ劇場中継というべきコメディー「番頭はんと丁稚どん」でもその当時、チャンネルの主導権を持っていた中年視聴者にでもかなりノスタルジーを含んだ喜劇だったに違いない。

この噺でいたく興味を持って納得したのは、商家の言葉遣いである。 勿論、同輩、目下の者に使うぞんざいな言葉は別段気にはならないが、それでも目下のものに使う言葉の端々に柔らかい、綿でくるんだ世間知が感じられるのだが、同時に、自分の茶屋遊びが発覚して、それを諌められるとびくびくする番頭に話しかけられる旦那の言葉はこの番頭の耳には正しく真綿で首を絞められるような、と響くのだ。 自分が大阪出身であるからこの40年ほどの言葉とはまた一味違う、この噺のなかの言葉は人情の機微があちこちに現れる、含みの多い味わいで深く響くのだが、さて、関東の人間にはどのように響くのだろうか。

この言葉の機微がこの噺の核になっており、全体としては、多分、理想化された商家の佇まいになっているのだろうが、生きる、死ぬの人情話ではないし、また、おっとりとした噺であるから、他の爆笑を誘う噺の並ぶなかで花見の喧騒から少しはなれたところで咲く桜のようにして思い出されるような作であろう。

ここでは茶屋の女たち、幇間花見屋形船がらみで微かにしか登場しないが、この花街の人々、現在では我々の届く範囲にはなく、文化財としてだけ生息すると仄聞しているが、誠に惜しいことで、もう40年以上も前に亡くなった遠縁の叔父が一番の楽しみが茶屋遊びであったことを思い出すに、自分の経験してこなかった楽しみが惜しまれる。 この間DVDで観た大島篠田などの映画のなかでも垣間見られるその世界の緊張感は落語の中では町人の、もっと寛いだものと語られ、一瞬自分もそばに番頭の花色木綿の襦袢を見ていてその番頭のだらしない酔い加減と酒の匂いが漂うような気にさせられるのだ。

今日の花見旦那が足を伸ばして眺めた1本の八重桜だったのだが、現実には私のうちから200mほど離れた20本ほどの八重桜の並木が満開になるのは、例年よりは3週間は遅いことから、まだ1ヶ月はかかるのではないだろうか。 この国ではそのような花見の習慣はない。

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