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即興小説 M氏の事件

2024年08月08日 16:43

即興小説・M氏の事件
 
 これは私の友人H氏が体験した事件である。

 「ちょっとした旅に出るだって? 君とした事が、どういう風の吹き回しだい?」

 明くる日の朝の事である。いつもは昼までダラダラと惰眠を貪っているH君が珍しく早起きして、コーヒーを片手に朝刊を読んでいるのである。その奇怪な光景に、思わず目を丸くした私だったが、H君に理由を尋ねてみると、旅に出るとのこと。

「なあに、長くはならんだろう。すぐに戻るさ」

 なにが面白いのか、タブロイド紙の隅々にまで目を通しながらH君は、面倒臭そうに答えた。

「仕事の依頼でもあったのかい? 出不精の君自ら、わざわざ出掛けていくとは、余程報酬でも弾まれたのかね?」



 H君は探偵業を営んでいるのである。とはいっても、かつてまともに仕事などした事のない彼が営業活動などできるはずもなく、主に警察から事件を斡旋してもらっているのである。そうして事件の関係者から幾ばくかの報酬金を貰っているのだが、H君はそんな手続きすらもかったるそうに、嫌々ながら受け取っていた。呆気に取られていた依頼人を見た私は思わず、依頼人が帰った後でH君に忠告していた。

お客さんがせっかくお礼を渡してくれているんだから、そんな渋い顔をする事はないじゃないか」

 今度は私の方を恨めしそうな顔で見て、H君はいうのだった。

「ぼくとは、そこそこの長い付き合いのあるW君、きみならわかってくれてると思ったんだがね。ぼくは金のために推理をしているわけじゃないんだ。頭の中に引っ掛かかっているゴミのような、邪魔くさいちっぽけな謎が解けてしまえば、ぼくはもうそれで満足なんだよ。そこに付随する報酬なんぞ、別にぼくはどうでもいい。まあ、煙草コーヒーを買うのに小銭があるにこしたことはないから、所詮ぼくにとってはその程度の価値しかないということさ」

 H君は実家が資産家なのであった。確かに、彼の計り知れない知識の源流は、世界各国の書物や珍品を蒐集しているという一族由来のものではあるのだろうが、しかし、問題はそういう事ではない。

「うーん、なんていうかな? H君、きみはあれだけの頭脳を誇りながら、どうしてどうして人と人との大事ななにかが欠けているというか、、、こう、相手が笑顔お礼を言っているんだから、こちらもいいえ、どういたしましてと、にっこり微笑みを返してあげれば、万事、物事は気持ち良く終わるとは思わないのかね? きみといったら、どうだい? 苦虫を噛み潰したような顔をして、やれやれとでも言いたげな顔だったぞ」

「そう、やれやれだね。きみみたいな脳天気なおつむなやつらばかりだったら、世界は確かに平和だっただろうね。探偵もいらない、はい、よかったよかった」

 ぼくはすっかり次の言葉を失ってしまったのだった。


 そんな過去の出来事を思い出していたら、H君はいつのまにかコート羽織り、帽子も被って、すっかり出発の準備は出来たようであった。

報酬金? きみは、まだそんな事を言っているのかね? あいにくだが、ぼくはもう時間が無い。船が出てしまうんでね? ほら、これをやるよ! どうせ、またぼくの事件を面白おかしくレポートして雑誌社に売り捌くつもりなんだろう? 資料をやるから、ぼくが戻るまで、それを読んで待っていてくれたまえ」

 H君が投げつけてきた紙切れをぼくが受け取るのと、彼が無造作に閉めた入口の扉の音が聞こえたのは、ほぼ同時の事であった。

「おっとっと、なんだい、これは? 手紙?」

 その手紙には、このような事が書いてあった。


 ーー親愛なるH君。既に同窓会の知らせは届いているだろうが、おそらくきみはそんなものに興味は示さないだろう事は、僕も理解しているんだ。あの頃から、きみは僕たちとは全くちがうものを見ているようだった。僕は、そんなきみに憧れを抱き、少しでも近づこうと思ったものだが、僕はきみの隣に居ることさえかなわなかったね。いや、今はそんなセンチメンタリズムに浸っているときではない。

 A。

 僕があれこれと言葉を尽くすよりも、A、彼女の名を挙げた方が、きみにとっては、一をもって万を知るということになるはずだ。Aを助けてほしいんだ。詳しいことは、ここでは言えない。

 同窓会が開かれるS市には、船で向かうことになる。招待券を同封しておくよ。
なあに、きみは必ず来てくれると僕は信じている。

 きみの古い友人、Mより



次回に続きます

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