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南北朝時代までの道のり
2016年05月01日 22:22
南北朝の乱れの遠因は昨日書いたとおり
天皇の権威失墜させた院政の弊害である
院政とは皇位に付いた天皇が早々に退位し自らに都合のよいもしくは寵愛する皇子に践祚し天皇とたて
自らは上皇となり宮中での実権を握ること。
本当に狭い御所の中でのことで天皇は一人でも上皇は何人もいるという時代が平安時代より続く
そして上皇同士の権力闘争が行われてきた
その最大の被害者は崇徳上皇で政争に負け讃岐に流され自身の家である天皇家を呪いお隠れになった
一般には鎌倉幕府の弱体化、時の執権である北条高時が暗愚であったが故とされる
あまり語られないが高時の二世代前、時間にして百年に満たない前に元寇があった
元寇に対処した執権は北条時宗、時宗が政治家として優秀だったかどうかの評価は難しい
元の使者を問答無用と切り捨てたのが元寇の原因ともされるが使節を歓待したとしても間違いなく攻めてくるのが明らかであったのは東ヨーロッパまでをも勢力下に置いた元の首都が北京にあったことでもからして察しが付く、それに気付かねばそれこそ政治家失格である
問題は時宗が36歳という若さで早世してしまった事にある
元と直接戦ったのは西日本、戦わざるを得ない九州の武門の御家人である
元々鎌倉幕府は西国に影響力を与えられるほどの権力はなかった
幕府は元寇で活躍した御家人にたいし所領安堵等の基本的な恩賞すら与えずに全てを北条一門のものとしてしまった。この時代の武門はまだ「一所懸命」でもって自ら土地を耕した振興武家集団である
「驕る平家は久しからず」
北条氏は平家であった。
西国のみならず東国でも北条氏以外の武家はないがしろにされていた。
後に幕府を倒した足利尊氏すら下野国の足利の荘と三河国しか所領は持っていない、同門の新田義貞に至っては自ら切り開いた田畑を売り何とか食いつないでいたのが現状だった。
新田も足利も庶流ではあるが武家の名を轟かせた武門の頭領八幡太郎義家の子孫である。
鎌倉末には明確な担ぐべき武門の家は無かったといっていい。
中央の武家は京と鎌倉両方の顔を立てながら生きていくしかなかった。
その代表格が婆娑羅大名で有名な
「佐々木高氏道誉」である
南北ちょい時代の活躍した武将達は名門の主心者などはおらず「悪党(強い者)」といわれる振興武家集団だった。勿論彼等が出てくる原因には北条氏の傲慢があり既存の秩序の崩壊が始まっていたからだろう。
鎌倉幕府への不満は日本全国にあったといっていい
京や鎌倉では北条の眼を光らすことが出来てもそれ以外の土地では無理であった
当然倒幕の気運は高まる
武家を嫌う公家が動き始める、その代表が「日野資朝」である。
公家に軍事力はない
よって嫌ってはいるが武家に頼らざるを得ない
この矛盾こそが南北朝の騒乱となる
このデジログへのコメント
鎌倉幕府の後にできた室町幕府も不安定な時期が長かったですよね(*'‐'*)
> Mikanさん
絶対的な権力者として君臨していた六代将軍の足利義教が暗殺されて以降からが
戦国時代の夜明けですね
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