- 名前
- ぶだい
- 性別
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- 年齢
- 55歳
- 住所
- 東京
- 自己紹介
- 無機的な、 からっぽな、 ニュートラルな、 中間色の、 富裕な、 抜け目がない、 或...
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建武の新政
2016年05月14日 13:42
後醍醐帝が京に帰還して行った親政でもある
親政である故自らの意思が最優先となる
端的に言ってしまうと「力の無い独裁者」が誕生したことになる
武家も公家もただ働きは嫌がる、特に武家は結果に応じた恩賞が無いと動くことは無い
この親政では実は武家の不満も多かったが公家も不満とまでは言えぬが
不公平感のようなものを隠さずにいた
その代表が
北畠親房である
彼はある意味とてもバランス感覚があり悪い意味で公家らしい公家だった
自身の地位は守りながらも戦乱のさなかは当時北面の武士として奥州にいた
息子の北畠顕家に武門のような働きをさせ自らは後醍醐帝とは少し距離を置いていた
鎌倉倒幕の結果武門でまともな恩賞に授かったのは
足利尊氏
新田義貞
楠木正成
くらいだろう
いち早く南朝方に付いた赤松円心などは全く評価されず所領安堵もされなかった
大半の恩賞は実力の無い後醍醐帝の腹心であった名も無き公家が大きな利を得る
公家がこの結果に不満を盛らず野は当たり前で
武家に至ってはこの時既に後醍醐帝から離れていく結果となる
彼等武家の不満のはけ口は当然足利尊氏に向かう
殿上人となった尊氏は各武家達の不満を代弁するがきかれない
そんな折に北条高時に息子が立ち上がり鎌倉へと攻め込む事件が起きる
当時の鎌倉には尊氏の妻子をおいて政務は弟の直義が取り仕切っていた
足利直義は尊氏と違い戦下手であった
鎌倉の危機に直面して尊氏は後醍醐帝に自ら「征夷大将軍」の位を要求するが敵わない
そこには徹底的な武家嫌いの公家や後醍醐帝の長子護良親王の意向も強かったと思われる
結果征夷大将軍に護良親王
鎮守府将軍に足利尊氏という上下が生まれる
鎌倉の危機である
身内を放って置くことはこの時代には有り得ないこと
尊氏は後醍醐帝を無視し自ら兵を率い鎌倉へ進軍し乱を押さえ
鎌倉で居を構えることとなる
再三にわたる上洛の命をも無視して
そしてこれから本格的な全国を巻き込む南北朝の戦乱の時代が始まる
このデジログへのコメント
真田丸とかドラマは面白おかしく。真実ははっきりわかってないかも知れへん。武士道ってのかて、それが美しいと洗脳されていた風にも受け取れなくない。洗脳というか、鼓舞するためのマニュアル?難しいのぉ。。。
> ネコマルver2さん
武士道は思われているような美学は無いでしょうね
太平の世となった江戸時代になって書かれた「葉隠」がその根本にあるので
綺麗事かもしれませんね
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