- 名前
- ぶだい
- 性別
- ♂
- 年齢
- 55歳
- 住所
- 東京
- 自己紹介
- 無機的な、 からっぽな、 ニュートラルな、 中間色の、 富裕な、 抜け目がない、 或...
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尊氏は誰と戦っていたのか
2016年05月17日 17:55
京離れ鎌倉に居を構えた尊氏のもとには
鎌倉幕府を打倒した全国各地の有力な武家から建武の新政の結果の公家ありきに対する怒りとも言える苦情が殺到した。
そして独自の裁量で各地の武家達に所領安堵の書状を送るという政務に取りかかる
この時の尊氏は従三位征東将軍ではあったが建武の新政と共に始まった内裏の役職には就いていなかった。
この辺りが尊氏の性格がよく分からないところで鈍感でおおらかな感じがするし器の大きさも感じさせる。
彼が鎌倉にいるということは以前の鎌倉幕府の仕事を自分勝手に始めたと言うことでもある。
この事が後醍醐帝の逆鱗に触れ後醍醐帝は時の征夷大将軍護良親王と新田義貞、そして奥州にいた北畠顕家に尊氏追討を命じる。
尊氏は帝に逆らう意思はないとし自ら髷を切り落としてみせた。
尊氏自身は後醍醐帝の忠臣で有るという意識は多分にあったと思う、後々の話ではあるが後醍醐天皇崩御の際には都に「天竜寺」を後醍醐天皇の菩提を弔うために建立している。
この間戦の指揮をしたのは弟の「足利直義」と執事の「高師直」であったが敗戦に次ぐ敗戦をし続けとうとう尊氏が立ち上がる、尊氏は身内は本当に大切にしていた故に彼等を助けることが第一義であった。
もうこの頃は完全に武門の頭領として認められていたのだと思う。
軍が集まり彼等の意向もあったろう、京を目指しあっという間に京を落として見せた。
後醍醐帝は一時期比叡山にこもらざるを得なくなる。
しかし再度北畠顕家、新田義貞、楠木正成らの猛攻にあえなく屈指九州まで下ることになってしまう。
しかし既に持明院統の光厳上皇とは連絡は取ってあり後の玉を用意した上で九州平定し
再上洛を目指す
尊氏は飛ぶ鳥を落とす勢いでもって京に迫る
この時代自身や他の武将の力量を冷静に見つめ判断できた武将はいなかった
唯一の例外は「楠木正成」であった、恐らくは彼の持っていた情報収集能力やそれを支える何かが存在したのであろう。
都では特に宮中はのんきである
戦乱の世という空気は無い
その時楽しければよいといった雰囲気が公家にあったし尊氏を心底恐れていたのは、楠木正成くらいであろう。
そんな中開かれた評定の場で正成は
京を空にし、足利軍を迎え入れた上で街道を封鎖し兵糧攻めを提案する
戦乱の中の厭戦感もあったろうし公家自身は戦わないから再度比叡山にこもるのは嫌だ、ただそれだけの理由でこの正成の可能性の高い作戦は却下された
この時正成は恐らく後醍醐帝を見捨てた
そして湊川の決戦に至る
このデジログへのコメント
情報収集と、その裏で支える縁の下の力持ちは、今でも大切なコト。今も昔も変わらず。。。
トップになって私腹を肥やすのも変わらないんやのぉ。。。マスゾエ
> ネコマルver2さん
残念なことに下で支え頑張っても報われないし厳しく言うことになるから疎まれる
必ずしも努力は報われない、いつの世もですね
ハゲはは近いうち辞めるでしょうね
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