- 名前
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- 年齢
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- 住所
- 東京
- 自己紹介
- 無機的な、 からっぽな、 ニュートラルな、 中間色の、 富裕な、 抜け目がない、 或...
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湊川の決戦
2016年05月26日 15:34
以前書いたことありますが再び・・・
この戦は太平記にのみ書かれていることなので子細は分からない
楠木正成が提案した京に尊氏軍を要れ要所をふさぎ兵糧攻め、ゲリラ戦を行うという一番可能性のあった策を却下された時正成はどう思ったであろうか?
この頃になると時間の経過もあり世代も変わりつつあった
尊氏には義詮が、正成には正行が
事実は分からないが息子達に家督を譲った時のことを考え戦場にも出し、評定にもくわえ実務の英才教育をしなければなたない。
後に尊氏が新たな幕府を開いた時は政務は義詮に任せていた、勿論尊氏の意向の上だとは思うが
後醍醐帝は兵庫で戦えといったとされる
尊氏は一度敗れ九州に落ち延び本来なら源氏の名前では動かぬ武士団を従え瞬く間に進軍してきた
西国武士団は大陸とも近いが故に東国の無骨な者達よりも若干存在のあり方が違う
勿論尊氏の勝ち馬に乗り鎌倉、建武の新政でごちゃごちゃになってしまった領地問題を有利にさせたいが為の参戦と考えた方がよい。その為には勝たねばならない。
楠木正成も、新田義貞も大将として、勝てないだろう事は承知していたであろう
軍を預かるものが考えることは兵を死なせぬ事、彼等は平時は田畑を耕す存在であるから
武門は彼等領民を守るために存在しさらには開墾されていない土地を新たに先頭を切って耕すことも涼味の信頼を得るためにしなければならない
さて本題である
湊川での戦は新田潰しの戦だったのではないか
足利、新田共々朝廷に足利は新田討伐を、新田は足利討伐を提案していた
昭和終わり頃発見された古文書に観阿弥の出自が記載されていた
その内容は伊賀服部氏に楠木正成の妹が嫁ぎその息子が観阿弥であると
室町幕府は盤石にした三代将軍足利義満は観阿弥の息子である世阿弥と親しくただの申楽舞の息子である世阿弥を公家に預け当代一流の知識人にさせている
もし世阿弥の祖母が楠木一族であったのなら足利と楠木の間で密約があったとみた方がいい
尊氏と正成が親しくしていたかは定かではないが倒幕の折に都で顔を合わせているのは間違いないし尊氏が倒幕を決意したことによって戦況が明らかに変わったのも間違いない
その後顔を合わせる機会はなくなるが正成は今で云うところの関西随一の武将である
足利と楠木の間で密書の遣り取りがない方が不自然である、立場上袂を別けたが領民を考えると東西の実力者同士なにかが会ったはずである
湊川では大戦とはならなかったと思う
太平記では戦に敗れた楠木党はとある館に逃げ込み火を付けた上で自害している
新田はというと敗戦し北陸に逃げたがそこで無残にも討ち取られてしまった
尊氏は対象として楠木正成の首実検をしている
焼けただれ誰とも判別の付かない首を
そしてその首を楠木に返してまでいる
恐らくは正成正季兄弟は今後は表に出ないという密約でもって
楠木党は無駄死にはしない、尊氏も正成を殺めたくはなかった
唯一の誤算は尊氏が上洛し後醍醐帝を廃帝とし光明天皇を立てたが後醍醐帝は懲りずに吉野に逃げ再度帝王として君臨することになる、ただの権威に過ぎないものの愚かさとしか思えない、その結果続いた小競り合いでの戦死者を思うと
恐らく正成は身分を偽り河内を修めるものとして天寿を全うしたことと思う
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