- 名前
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- 住所
- 東京
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- 無機的な、 からっぽな、 ニュートラルな、 中間色の、 富裕な、 抜け目がない、 或...
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楠木正成という人
2016年05月23日 22:06
現在「大楠公」とされている楠木正成像は江戸時代の水戸学や
朱子学の影響がかなりあるうえに明治維新後の皇国史観によって
忠臣であるとの過大評価がされている
江戸期の水戸学を始めとする朱子学は基本的に儒教であり
徳川に忠節を誓わせるための学問だった一面もある
正成について考える時はこの所に疑問符を付けることから始めなければならない
楠木氏は一般に橘氏という歴とした貴族の末裔であると僭称しているが
橘諸兄を祖とする奈良時代から続く橘氏はほぼ平安時代に藤原氏によって朝廷から駆逐されたと言ってよい。その上、源氏や平氏のように武門に落ちることを積極的に行ったとは寡聞にして聞かない。
もし楠木正成の氏が橘氏であったならば橘紋でもって自身の血統を主張すればよかったが、後醍醐帝より菊水紋を授かりその旗印でもって戦っていた。
さて太平記に描かれているように後醍醐帝の夢枕に正成を示唆するものが立ったのだろうか?
否である
鎌倉幕府は河内の土豪で悪党として存在していた楠木氏の存在は当然知っていた
勿論幕府に出仕するような立場では無いが
腐っていても鎌倉である
各地の有力御家人を把握していないわけが無い
問題である正成が忠臣であったか否か
この判断は難しい
正成の姿勢を伺う限り戦で死ぬのはまっぴらごめんといったスタンスが感じられる
尊氏が動くまで山城にこもり負けない戦に徹していた
その後の戦も同じでこの時代にどこまで評価されていたのかが定かでは無いし
「楠木」の名で動く武将はいなかっただろう
事実尊氏との戦の大半をになったのは同じ源氏である新田義貞であった
朝廷からすれば後々のことを考えれば最大の武力勢力である源氏同士を戦わせ疲弊させた方が得であるのはいうまでもない
しかし新田は戦下手であった上に尊氏のように人に好かれるものを持っていなかった
新田義貞から感じられるのはただ「尊氏憎し」であり尊氏を倒し自身が源氏の統領となりたいといった対局を見極めない個人的な感情しか感じられない
楠木にしても新田にしても武家に恩賞は与えないという後醍醐帝の方針に頷いていたわけでは無いであろう。
最後の大戦となる「湊川の決戦」の結果がひとつの答えとなるのでは無いであろうか
このデジログへのコメント
敵がいるから味方がある。白があるから黒が際立つ。
結果は結果かも知れへんけど、その過程を見るのもおもろいやんなぁ~
うん、知らない事を知ったり調べたり。お金にならなくても、自分は満足ww
> ネコマルver2さん
歴史に限らず現在起きていることでも過程があるからひとつの結果として落ち着くんですよね
この無駄に長い太平記シリーズは自己満の復習でもあります
サミットの結果も楽しみです
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