- 名前
- ぶだい
- 性別
- ♂
- 年齢
- 55歳
- 住所
- 東京
- 自己紹介
- 無機的な、 からっぽな、 ニュートラルな、 中間色の、 富裕な、 抜け目がない、 或...
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尊氏の人物像
2016年05月20日 23:29
この人は本当によく分からない
無い中、あるもので尊氏像を考えてみても全く首尾一貫したところが無く
それはいい意味では人間くさい人だと言えるが、権力のトップに躍り出た為政者としてはどうなのか?
随分昔の学者さんは彼は何らかの精神異常を来していたのでは無いかとしたほど専門家でも評価できにくいのが現実。
ざっくり言ってしまえば「おおざっぱでお人好し」
地位が上がれば上がるほど頼まれたことにはきちんと対応する
それ故に活躍した者達に与えた恩賞がダブってしまうなどと言うことがあったらしい
時代を考えればきちんとした行政区間もなにも無い中ここを、といってもそこが定かでないこともあったろうが、煩瑣な政務は執事の高師直に任せるべきだった。
尊氏は頼朝とは全く違い政治家としての資質は無かった
かといって義経のような戦上手あったわけでも無い
いわゆる「大将の器」であった
恐らくは人に好かれる魅力的なものをもっていたのだろう
戦に関しては策を練って戦っていたといった感じが無い
負け戦も素直に受け入れている
しかし負けても誰かが必ず彼を担ぎ出す
これは祖を同じくする新田義貞にはなかった
足利と新田は元々の祖先は八幡太郎義家で彼の諸子の兄弟を元とする
尚且つ兄弟というてんで視れば新田が兄であった
しかし新田に付いた武士団はいなかったといっていい
彼が指揮していたのは与えられた兵であり尊氏のように集まってきた兵では無かった
勿論南北朝に至るまでの新田氏と足利氏のたどってきた道の違いも大きく影響しているとは思う
唯一揺るがなかったのが後醍醐帝に対する臣下であるという立場かもしれない
鎌倉で再度立ち上がった時に尊氏らは護良親王を捕らえた
尊氏は殺めることは考えずに恐らくは最低限以上のものを用意して鎌倉で蟄居させた
しかし尊氏が再度上洛を目指し進軍を始めた時、鎌倉での実務を行うために弟の直義を残していた
政治センスは直義の方が遙かに上である、その期を逃さず決断できぬ兄の代わりに護良親王を暗殺してしまう。この時代を俯瞰してみれば正解であるが尊氏が激怒し直義に厳罰を与えようとするが結局この事も不問として許してしまう。そして少し後のことだが自身の庶子を子のいなかった直義に養子として出し後に元服して「直冬」と名乗り不和になるかと見えた兄弟間もよくなった。
尊氏はとにかく自らに興味好意を抱く人間なら誰でも受け入れていた
彼の最晩年までの同士と言える婆娑羅大名佐々木道誉もその一人である
最初は名が同じ「高氏」であった為親しくなったとされるが佐々木道誉は常に強い側に寄り添い油断ならない人誑しでもあったが彼を常に重用していた。
書いていて何を書いているのかがよく分からない・・・
まぁ勢いで書いているだけなのでその点はお許しを
関係ないけれども・・・
最近やっと血液型占いみたいなのが分かるようになりました
四十後半にして十代取っておくべきに必須単位をやっと取りました!
でね
やっぱり尊氏はよく分からないので血液型で表現します
O型なんだけれども若干Bの要素もある人
です、尊氏はO型の武将!
このデジログへのコメント
> faith*αさん
実は血液型での判断まだ出来ません・・・
よく分からない人なのでよく分かっていない事で誤魔化しました
> み そ のさん
銀座のママですか・・・縁ないなぁ・・・
一度でいいからザギンで遊んでみたいです
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