- 名前
- エンドウ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 40歳
- 住所
- 愛知
- 自己紹介
- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。
愛はウェイトトレーニング
2006年11月21日 01:24
美容と健康のためにウェイトトレーニングを始めてから、なんだか調子がいい。
身体が以前よりも筋肉質になり、輪郭が引き締まってきた。少しずつ重いウェイトを持ち上げることができるようになっており、力がついていることも実感できる。また、ご飯がおいしく食べられる上に体重も安定している。下手なダイエットよりも健康的だ。
トレーニングは近代スポーツの部類なので、理詰めで行うところが大きい。
筋肉は運動量に応じて太さを調節する仕組みを持っている。その性質を利用して、負荷をかけることによって筋繊維を大きくすることがウェイトトレーニングなのだが、単純に重いものを持ち上げていれば良いというわけではない。
「8~12回持ち上げることがやっと」の重さで行い、それを数回繰り返すことが定石であるとされている。筋肉は動作に対して初めからその全てが動員されるわけではないので、セットを繰り返して動員数を上げていく必要がある。軽すぎず重すぎず、適度なウェイトにより、適度な回数でトレーニングを行うことが大切というわけだ。
トレーニングで用いるウェイトはしっかりと重量が記されているからわかりやすい。しかし、形を持たないものの重さとなると話は途端にややこしくなる。
たとえば、「あなたの愛は重い」という言い回しは誰もが知るところだろう。
束縛具合が強いことをあらかじめ弁明するために「自分の愛は重い」と釘をさす場合もあるが、ふられる相手に告げられることのほうがしばしばだ。好きな人から突きつけられるその慣用句は、いわば相手に向けてきた気持ちを全否定されるものであり、修復できない関係とともに大きな衝撃となる。
「愛が重い」というのは唐突にやってくるからいけない。二人の間に交わされた感情が果たして本当に愛であるかどうかはともかく、愛とは支えきれないほどに重いものなのだろうか。相手は別れの間際までずっと耐え難い重圧に苦しんできたというのだろうか。
そうではないだろう。
愛とは単独で存在するものではない。家族や恋人、あるいは自分といった、それが向けられる何らかの対象との関係の中において初めて生まれるものだ。
たとえ恋人といえども、毎日毎日メールを交換するというのは自分の生活に過度に干渉されるようでうっとうしい。しかし、それこそが愛の証であり、間が空いてしまうと気持ちを疑ってしまうというのもひとつの関係だ。
同じ行為でも人によって感じる重さは異なってくる。その意味で、愛の重さとは絶対的なものではなく、関係性の中で重さを持つ相対的なものである。
人が別れるのは相応の経緯があったのだろうから仕方がない。しかし、別れ際に「愛が重い」なんて言い出すのはあまりに一方的ではないだろうか。まあ、そんな言葉が飛び出してくるほどにバランスが崩壊しているということだ。
適度な愛情を交わすことが望ましいという点では、愛とはウェイトトレーニングに似る。関係性の中でお互いの気持ちのバランスをとっていくことが、愛を育むコツなんだろう。
このデジログへのコメント
えりは「愛(気持ち)が重い」って男性によく言われる。ウエイトトレーニングで引き締まった写真見た~い。
コメントを書く