- 名前
- エンドウ
- 性別
- ♂
- 年齢
- 40歳
- 住所
- 愛知
- 自己紹介
- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
JavaScriptを有効にすると、デジカフェをより快適にご利用できます。
ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてからご利用ください。
精神障がい者が社会で当たり前に暮らすためには
2006年09月01日 23:51
当たり前の暮らしとはどのようなものを指すのだろうか。
それは「誰が考えてもそうあるべき、普通の状態」であるので、具体的には定義しにくい概念である。むしろ具体的な形に定まらないところに本質があると思うのだが、形無きものに不安を覚えてしまうのも人間の性である。そのため、指し示された「幸せな生活のモデル」に当てはまることによって安心を得ようとすることが往々としてある。
たとえば、大学卒業後は何らかの職に就き仕事をするというのが通念である。実際に多くの友人が就職したが、在学中に精神保健福祉分野に強い興味を抱いた僕は学生を続ける道を選んだ。保育を学んでおり、その分野へと就職の道が開けていたにもかかわらず、向いているかどうかもわからない精神保健福祉士を目指すことを決めたのだ。それは理屈よりも自分の感覚を大事にした結果であったし、ともすればわがままともなる僕の意思を両親が尊重してくれたからこそ実現した道である。
自分にとって不満を感じることのない選択であったが、就職しなかったということを話すと怪訝な顔をする人は少なくない。極端なことを言えば、大学卒業後に就職するというコースを取らなかった僕の生活が当たり前ではないからだろう。
型にはめるという意味では、2006年4月1日よりスタートした障害者自立支援法はまさしくその典型であると思っている。
応益負担の仕組みなどから自立阻害法との悪名高い障害者自立支援法であるが、実質的なところはともかくとして、その名称が表すとおり自立を支援するための法律という定義には違いないのだろう。しかし、ここで謳われている自立支援とは障がい者の持つ様々なニーズにかなったものであるのだろうか。
全ての人が「人と状況の全体性」の視座を持ち、精神障がい者に共感的理解を示すことができるのならば、おそらく専門職も支援制度も必要ないのであろう。しかしいわゆる健常者を優先して構築された社会で精神障がい者が当たり前の生活を送るためには、福祉が不可欠である。ただ、当たり前という観点はノーマライゼーションの視点を盛り込んでいるようで、物事を画一的にしてしまう危うい側面を持っている。障害者自立支援法は当たり前という概念を実に逆手にとって施行された制度ではないだろうか。
財政的な問題も大きく影響しているのだろうが、厚生労働省の示す「当たり前の生活」のモデルがあり、それに当てはまることができなければ自立支援はできないという意図は否めない。自立支援というよりも、新たなる社会的障壁である。
1995年に精神障がい者の自立と社会参加の促進を目的とし、精神保健法が一部改正され、精神保健福祉法となった。また同年12月には「障害者プラン−ノーマライゼーション7か年戦略」が発表され、障がい者が地域にてほかの市民とともに生活を送ることができるような社会を作ることを目標とした。医学モデル中心から生活モデル中心へと精神保健福祉の機軸が移り変わり、精神病院や施設での生活から、地域での生活支援へと転換しようとしていたはずである。そこに鑑みれば、障害者自立支援法は時代を逆行する法に他ならない。
精神障がいに対する偏見や差別は根強い。また、当事者や家族も障がいを受け入れられなかったり、隠したり、医者の発言力のほうが強いことがあり、自己主張できない部分があると知人の精神保健福祉士が語っていた。そんな状況であるのに、精神障がい者の力となるべき法律が、逆に当事者を押さえつけるようでは何のための法なのか。
精神障がい者が当たり前に暮らすためには、たとえば、地域生活支援に必要であるのにもかかわらず不足がちな社会資源を生み出すことが大切である。様々な社会資源を連携させて、地域でのネットワークで精神障がい者の生活を支えることが普通の暮らしを実現する有効な手段となる。ただ、それもネットワークの形成主体である人間に「共生」の意識がなければ形成はままならないだろう。
精神障がい者福祉に携わる人間が必ずしも彼らの「生活のしづらさ」に理解を示しているわけではない。それは障害者自立支援法の迷走具合がよく表している。だからこそ、精神保健福祉士ならではの専門性である価値・知識・技術の中でも土台となる価値を大切にしたい。そして、人へ、社会へと伝えていかなければならないと思う。
制度やサービスを充実させることも必要である。しかし、それが何に立脚しているかを見失ったままいたずらに行われる当事者なき福祉は、福祉ではない。
僕が常々思っていることであるが、福祉があって人があるのではなく、まず人があって、そして福祉があるのである。人にはそれぞれよいところがあり、それを大切にしたい。その根幹の部分を決して失念しないことが、精神障がい者が社会で当たり前の暮らす基盤になると考えている。
このデジログへのコメント
課題レポートとして書いたものを転載しました。手抜きとも言います。専門用語の使用等はご容赦ください。
エンドウさんは自分の決めた道を真っ直ぐ進んでるね。障害者も健常者も関係なく1番大切なのは人だもんね。
コメントを書く