- 名前
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- 飲食店で激務の傍ら、休日は愛車と気ままなお出かけをすることが多かったのですが、最近は...
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今は祭を楽しんで、
2006年09月16日 23:10
祭とは、元々は「神を祀る」というところから発生したとされている。
現在では様々な形に派生しており、五穀豊穣や無病息災を祈願して、あるいは成就を感謝して行われるものや、年中行事が発展して行われるものなど、多種多様である。目的によって催される時期も内容も異なるものとなるし、同じ目的でも地方によって特色が持たされていることもある。
祭の中には時代の変遷や社会環境の変化によって形骸化し、それを行うこと自体が目的になったというものも少なくない。
「お祭り騒ぎ」という言葉があるように、「祭=楽しいイベント」というような認識があることは、みな思い当たる節があるのではないだろうか。非日常的な場の空気に酔い、度を越した振る舞いさえも許されるのが祭ならば、元々の目的から見事に脱線している。
学園祭というのはその典型ではないだろうか。
高校生の妹の文化祭に招待されてきたのだが、実に疲れた。彼らが織り成す熱気はまさに「お祭り騒ぎ」のそれであり、僕には辛いものがあった。眺めているぶんには賑やかで良いのだが、その中にいることは気疲れさえもしてしまう。
とは言っても、高校生時代の僕は学園祭で大はしゃぎする側であった。
クラスでの担当をほったらかしにして部活の展示制作に没頭したり、舞台発表で(独断で)ダンボール製の自作マスクをかぶって立ち回ったりなど、好き勝手にやっていたと思う。
当時はそんな自分や状況に大満足していたのだが、思い返してみれば展示発表にせよ舞台発表にせよ、高校生のやることなので完成度は隙だらけであった。それでも悔いというようなものは残っていないし、よき思い出として位置づいている。
かつては楽しければそれでよかった。しかし、それで片付けてしまってはちょっと進歩がない。そもそも、学園祭はなんのために行われるのだろうか。
おそらくは、卒業後に控える大学進学あるいは就職といった、ひたすら自分と向き合う道を行くための土台作りなのだと思う。若々しく翻弄されやすいエネルギーを昇華させ、幼さを満足させるための「遊び」である。次なるステップへと進む子どもを預かる高校の責任として、「遊び」の機会を提供しているのではないだろうか。
機を逃すと、高校卒業以降に「遊び」を引きずることになる。それぞれのペースで大人になっていけばいいのであるが、大学生活という好機や社会人生活の出ばなを逃してしまうのはあまりにも惜しい。
存分に楽しんだ身としては、祭を外側から見ることになるので純粋に楽しむことはできない。しかし、それはそれで寂しいものがあるではないか。
今は外側から通り過ぎた場所を眺めているだけであるが、客観的視野に立ちつつ共感的に祭を楽しむところに、一歩突き抜けたいものである。
このデジログへのコメント
高校時代自分の高校の学園祭には参加せず男子高や大学の学園祭に行きまくってたよ(笑)
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