- 名前
- zz987
- 性別
- ♂
- 年齢
- 62歳
- 住所
- 東京
- 自己紹介
- スーパーアーティストzz987立川在住。平日/昼間のみ営業の秘密の遊園地・・御一緒に...
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★吉原(23)
2011年06月05日 00:06
八代目桂文楽『明烏(あけがらす)』
日本橋田所町三丁目日向屋半兵衛の息子時次郎、大門がどちらを向いているかも判らない、硬すぎる息子を何とかしてくれと、悪友2人に親父が頼む。源兵衛と多助はお稲荷さんのお籠もりだと言うことでを吉原に連れ出す。お詣りだけでなくお籠もりに必要な御利益の多いナリ(着物)とお賽銭をたっぷり持って出掛ける。
見返り柳を見ながら大門をくぐり、お巫女の家だと言うふれこみで茶屋に入る。茶屋だとバレるといけないので・・早々に見世に送り込まれると、どんな堅物でもここが何処だか判る。・・当たり前ですな。帰りたいと泣きながらだだをこねる若旦那に、大門の所で帳面に付けていて、3人で来たのに1人では帰れないとか、適当に言い含め、飲み始める。若旦那は一人落ち込んでいると、十八で絶世の美女の花魁”うら里”がそれなら私がと自らお見立て。部屋の方にと案内するとさんざん抵抗してやっとの事でその場は収まり・・・朝を迎える。
「振られた者のお越し番」・・源兵衛と多助は振られた朝を迎えたが、若旦那はモテて、まだ部屋に居るというので、甘納豆をほおばりながら覗きに行くと・・若旦那はまだ床の中でうら里と共に居る。
2人・・・「又来ますから、起きたらいいでしょう」
うら里・・「若旦那、早く起きたら」
2人・・・「花魁も言っているように早くしたら」
若旦那・・「花魁はそーは言ってますが、私の手をグーっと、おさえて・・」
2人・・・「う~!。若旦那は時間があるのでユックリ遊んでいらっしゃい。私らは先に帰ります」
若旦那・・「帰れるものなら、帰ってごらん。大門で止められらー」
と言う落ち。
●見返り柳・・・台東区千束4-10-8。馬道通り(土手通り)から吉原に入る角に有る柳の木。今はガソリンスタンドの前の歩道に寂しそうに立っている。
『吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門戸の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ったということから、”見返り柳”の名があり、
きぬぎぬの後ろ髪ひく柳かな
見返れば意見か柳顔をうち
など、多くの川柳の題材になっている。
かっては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災よる焼失などによって、数代にわたり植え替えられた。』・・と書いてある、台東区教育委員会の立て札がある。
●大門(おおもん)跡・・・台東区千束4-11と33に道路をまたいで立っていた)吉原の入り口に有った門。江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。
吉原の回りは堀に囲まれ出入りは大門だけ。大門を入ると、右には出入りを監視する「会所(詰め所)」が有り、左には与力、同心、岡っ引きの詰める、「番所」が有った。これは遊女の脱出防ぎ、犯罪者の侵入を防いだ。女性は全て証明書(切符)が無いと出入りできなかった。噺の中で「大門でとめられる」は、まんざら嘘ではなかったわけです。善良(?)な一般の男は関係ありませんが・・。
●引き手茶屋と見世(貸座敷)・・・中小の見世では直に登楼することもできたが、大見世や格上の見世では通常茶屋を通してから見世に上がった。 茶屋とは 客に飲食・遊興をさせることを業とする家。芝居茶屋・相撲茶屋・料理茶屋・引手茶屋など。引手茶屋とは、遊郭で、遊客を妓楼に案内する茶屋。見世は妓楼で、道路に面して格子構えなどにし、遊女がいて遊客を誘う座敷。また、そこに遊女が居並んで客を待つこと。張見世(はりみせ)ともいわれる。・・と、広辞苑に書いてあります。
茶屋のシステムは芸者(芸を本業とするので、床には入らない)や幇間を上げて、飲食をして遊ばせ、その後、見世(貸座敷)にお客を送り出した。茶屋はその先の見世での料金を保証して、全て茶屋の責任で見世に支払いをした。その為、紹介のない一見(いちげん)さんを断った。紹介者は暗黙の内に、茶屋に対して連帯して保証した。今でも京都の祇園ではどんな有名人でも、一見さんを断る茶屋がある。茶屋遊びだけでも楽しく、それだけで満足して帰る客も多々あったようです。
寛永19年(1642)遊女987人、見世が125軒あった。明治30年(1897)茶屋60軒、見世200軒、昭和33年(1958)茶屋9軒、見世300軒になった。
若旦那・時次郎は二人の紹介で茶屋にも上げてもらえたし、見世では初会の客にも拘わらず破格の扱いを受けた。初会でベットイン出来るのは例外中の例外。
●稲荷・・・江戸を言い表すのに、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われるほど、江戸には稲荷が多かった。吉原の遊郭の中にも四隅にお稲荷さんが祀られていた。大門くぐって左に「明石」、時計回りに「九郎助(黒助)」、「開運」、「榎本」稲荷があり、入り口見返り柳の反対側に玄徳(よしとく)稲荷。
若旦那、どのお稲荷さんで”お籠もり”をするつもりだったのでしょうか?
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