- 名前
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当然の犠牲
2005年06月03日 22:32
いつのことだったか思い出せないのですが、何かのテレビ番組で『いのちの教育』と銘打った内容が放送されていました。
何事かといいますと、学生に鶏を屠殺させ、その肉を使って昼食のおかずを作るというものでした。
別に悪趣味な番組というわけではありません。
スーパーでパックに詰められて陳列されている肉を食べるのではなく、大切に育てられたものを自分の手でもって殺す。
その経験を通して、いのちを頂いているということを学生に知らせたいという狙いなのでしょう。
ディティールを覚えていないのではっきりとは言えませんが、舞台はおそらく農学校か何かであったと思います。
農学校に屠殺のカリキュラムがあるのかどうかは知りませんが、とにかく学生たちは自分たちの手で鶏のいのちを絶たねばならない状況でした。
自分たちの手で育てた鶏であるなら情も移っているでしょうから尚更ですが、そうでなくても生き物を殺すことには多少なりとも抵抗があり、行為には衝撃を受けるものですよ。
幼少時はよく虫を虐待していたものですが、さすがに小動物に手を出すことはしませんでした。
この番組に登場した学生たちはどうやら純粋なようで、殺される鶏に感情移入してしまってぐずぐずと泣き出してしまいます。
番組の構成はその悲痛さを押し出したいものだから、泣き崩れる学生の顔と、きょろきょろと末路を案ずる鶏の表情とを交互に映し出します。
そんな場面を見せ付けられたら視聴者は引き込まれてしまうではないですか。
その辺りエンドウさんはひねくれているものだから、「ここにいる鶏は初めからぶっ殺して食うために飼ってきたのだから、今になって同情するなんて勝手が過ぎる」なんて思ってしまいます。
いや、さすがに虫を殺すのとは違いますから、眉をひそめるくらいのことはしますよ。
それはともかく、学生たちは涙ながらに鶏を屠り、昼食に肉団子を食べます。
そして、食後のインタビューで「いのちの大切さを学んだ」などと答えていました。
スーパーに行けば、その見慣れ果てた異様な光景を目にすることができます。
部位ごとに解体されて、必要に応じてスライスされた肉がパック入りで並んでいますね。
この辺り、肉屋の本領発揮ですよ。
鶏を例に挙げれば、モモ・ムネ・ササミ・手羽先・手羽中・手羽元・肝・砂肝・骨付きモモ・軟骨・セセリ・ガラなどですね。
感慨も何もあったものではありません。
そこにあるのはいのちの断片ではなく、ただの肉塊なんですよ。
しかも、それは当たり前の食のシステムなんですね。
これではいのちを食べているという感覚が麻痺して当然です。
そんな生活を享受しているから、自ら手を下してみないといのちなんてことは実感できないのでしょう。
動物も植物も生きていて、僕たちはそれらを食らうことによって生をつないでいるのですよ。
動物は文字通り動いているので生きているという認識がしやすいですね
しかし、植物だって立派に生きているのです。
それを生きたまま切り取ったり引っこ抜いたりして売り出しているのですから、ある意味、動物を殺して食べるよりも残酷ですよ。
現在の日本で狩猟生活をしている人なんてまずいません。
食品を製造して流通させるというシステムが出来上がってしまっているからですね。
それは良いとか悪いとかではなく、もはやそうあってしかるべきものとなっています。
ただ、食品があって当たり前という生活は生物として問題ではないかと危惧してしまいます。
生きるためには犠牲がいるっていう当然のことは、せめて脳裏に留めておいて間違いはないことですね。
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