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★吉原(6)

2011年05月19日 00:20

★吉原(6)

今日は江戸花街事情


五代目志ん生師匠に限ったことではありませんが「吉原を北国、品川を南、州崎を辰巳、千住をコツ・・といったそうですな。」・・と紹介される江戸花街

正確には吉原お上公認の遊廓で、他は全て、岡場所と呼ばれる私設の花街だった訳でして、おのずと格式も違っていたようです。吉原を北国、品川を南・・江戸の二大花街を対照してこう呼ぶのは何となくわかります。

州崎は、深川のことで、州崎弁天の名が通っております。辰巳深川がお城(江戸城)に対して、辰巳(東南)の方角にあることから付いた呼び名です。いわゆる辰巳芸者と言う訳ですな。深川木場があり、材木商の中にはあの有名な紀文紀伊国屋文佐衛門)や奈良茂(奈良屋茂左衛門)がいるのですから、遊びも半端ではなかったことと思います。俗に粋で鯔背な辰巳芸者・・などと申しますが、当時、男のものであった羽織を着て、男名で座敷に上がっていたなどと聞くと、何やら生のいい啖呵が聞こえて来るようです。


千住のコツは仕置き場・小塚原が近くにあったから付いた呼び名。あと、岡場所と言えば、新宿板橋が有名どころですか。勘の良い方はお判りと存じますが、ここまで岡場所として上げた地名は、深川を除いて江戸の範囲ではないのです。品川東海道一の宿・千住も日光街道一の宿・新宿甲州街道のはじめ・板橋中山道一の宿ですな。これを四宿と称して大変に栄えた、まあ、繁華街です。前述のごとく、吉原幕府公認、四宿についても宿場女郎は条件付きながら、官許でありました。深川は・・と言うと、ここは正真正銘の非公認、・・いわば、岡場所の中の岡場所、岡場所の真骨頂とでもいいますか。では、非公認の花街はその他どこにあったのでしょう。


平賀源内の著作『風流志道軒伝』(宝暦13年)によりますと、深川を筆頭に、土橋三十三間堂・直助屋敷・入船町・石場・佃・新大橋・御旅・一ツ目・鐘撞堂・山猫・大根畑・鮫ヶ橋・万福寺・朝鮮長屋いろは・ぢく谷・世尊院・御箪笥町・音羽町・根津赤城・薮の下・愛嬌稲荷・市兵衛町・氷川・同朋町・丸山町・・とあります。随分あったんですねぇ。


ところが、お上の方のスタンスはというと・・『前々より禁制のごとく、江戸町中端々に至迄、遊女の類、隠置くべからず。もし違犯のやからあらば、某所の名主・五人組・地主迄。曲事たるべきもの也。』なんて立て札を吉原大門口に立て、公認はここだけと言いつつ結局、取締には手が廻らない。そんな言い訳をしながら・・まあ、よろしくやってたんでしょうな。こう言うところは今も昔も変りません。事実、天保の改革で水野越前上が、全て閉鎖した・・出来たんですから!! まあ、水野越前、血も涙もなかった訳ではなく、女郎家業継続していきたい者については、吉原を新たに移転しそちらに回収しています。



落語では、廓噺と言う分類で花街を題材にしたものが数多くあります。当然、吉原ものが大多数なのです。品川舞台にした噺としては『居残り佐平次』『品川心中』など。新宿舞台にした噺は『文違い』。また、コツ(千住)は、廓噺ではありませんが、『今戸の狐』『藁人形』などに出て来ます。


本日は・・この辺で・・・

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